〈記憶を歩く〉兵庫・在日朝鮮人1世/朴順祚さん(89)
2023年07月07日 09:01 暮らし・活動 記憶を歩く蚕育てる母の姿
初夏の訪れを感じる5月中旬、神戸市長田区に位置するデイサービスセンター「イオ神戸」を訪ねた。2021年に創設15年を迎えた同施設には、長田区、兵庫区、須磨区などに住む同胞高齢者を中心とした利用者らが通う。現在はその大半が、在日2世の同胞たちだ。
センターを訪ねると事前協議の段階で想定していた数よりも多い、6人ほど(全体の約10%)の利用者が、幼少期に朝鮮半島から日本へと渡ってきた、在日朝鮮人1世であることがわかった。
「何事にも前向きで、チャレンジ精神があり、できないことを探すのが難しいくらい。漢字を習いたいと言って、今も意欲的に勉強を続けている。トンポトンネが大好きな方ですよ」。韓管理長から紹介を受けたその相手は、朴順祚さん(89)。「元気なことない、見栄えだけや。字も下手なんよ」と言いながら、朗らかな笑みを浮かべ迎えてくれた。
朴さんは1933年12月15日、慶尚南道昌寧の百姓の家に生まれ、両親と兄、朴さんと弟の5人で暮らした。かのじょが育った村は、「街へ出るには一山越えなくてはいけない」ほどの田舎。幼少期を過ごした村での思い出で、朴さんの口から真っ先に出たのは、「村で人気だったオモニの姿」だ。「アボジとケンカすると『私はなにも知らないと思って、馬鹿にしてるんだ』と言うのが口癖だった」朴さんのオモニ。かつて大学まで通った父親とは異なり、無学だった。けれど、その母親がとびきり輝いてみえるときがあったという。
「当時住んでいた家のマダン(庭)は運動場くらいの広さがあって、その入り口に便所が、家の裏には蚕の木があってね。オモニが蚕に葉っぱ(桑の葉)をあげていた。いま思えば飼っていたんだと思う。繭を入れた鍋をコンロにのせて沸かすと糸がとれる。オモニは糸を取るとき、決まって私に『近所の子たちを呼んできなさい』っていうから、皆を連れてきたんよ。繭をとった後に残る虫が、美味しいんよまた。それが食べたくて、皆が列をつくって糸がとれるのを待っていた」(朴さん)
故郷の原風景
故郷を離れて80年以上が経ったが、鮮明な記憶がもう一つ。山や川、緑に囲まれた朴さんの村では、名節の時期が来ると、山の下にある広場に村の子どもたちが集まりクネティギ(ブランコ)やノルティギ(板飛び)といった民俗遊びを楽しんだ。当時といえば、これらは主に女性たちの遊びだった。一説では、封建時代に、自由に外出することを禁じられた両班階級の女性たちに対し、農民や平民階級の女性たちは、クネティギやノルティギなど民俗遊びをともにすることで「親睦と共同体意識をはぐく」んでいたという。
「若い娘さんたちが集まったよ。そこへ自分も行った記憶がある。大きな木の枝に、縄をぶらさげてブランコを吊るしたり、ノルティギもあったね。オンニたちが、自分ら小さい子に『ここへ来て立ちなさい』と言って真ん中に立たすんよ。そうしたらよう飛べるみたいで、その台にされたのは覚えている」(朴さん)
その他にも、夏の暑い日には、法事だったのか、村の年寄りたちがチゲ(背負子)にたくさん物をのせて山を登り、その後ろを村中の子どもたちが着いていくことも。冬になると、村から少し離れた場所にある川で、縄を通した箱に乗り、凍った川上を滑ったりもしたという。そのすべてが、朴さんにとってかけがえのない故郷・昌寧の原風景だった。
その後、朴さんの家族は、母方のおじが神戸を拠点にすでに働いていたこともあり、生計を立てるために父親がまず日本へ、それから間もなく家族たちも日本へと渡った。それは朴さんが「5歳か6歳の頃」の出来事だった。
助け合い築いた“トンネ”
「何の技術もない人やから、当時できる仕事と言ったら土方やろ。その土方の仕事も、雨が降ったら休み、雪が降ったら休み、何かと休んでいたから自分が食べるので精いっぱい。だから生活費を送ることもできかなかったと思うわ」
先に日本へ渡り、稼いで仕送りをすると言った父親の都合はつかず、その後、朴順祚さんたち家族は父がいる神戸へ向かった。「私らは日本へ行くなんてわからず、ただついて回るだけでしたよ」。
朴さんが渡日した5歳か6歳の頃は、