〈読書エッセー〉晴講雨読・李升基『科学者の手記』とその余波/任正爀
2023年05月29日 07:29 寄稿朝鮮を代表する科学者はと問われて、多くの人はビナロンの発明者・李升基博士を挙げる。しかし、それ以外の人となるとなかなか出てこない。一つの理由は関連する書籍が少ないからだろう。実際、日本で読める朝鮮人科学者に関する本は数えるほどしかない。正確にいえば筆者が知る限り5冊のみで、朝鮮の出版物の翻訳が2冊、日本人作家によるものが2冊、そしてもう一冊が筆者によるものである。順次、紹介していこうと思うが、まずは1962年に朝鮮の国立出版社から刊行された李升基『科学者の手記』である。
李升基博士は1905年に全羅南道潭陽に生まれた。父は開化思想の持ち主で、学問は出世のためではなく民族のためにするものだと常に息子に教えていたという。そして、博士は「朝鮮の科学を発展させよう。朝鮮にも科学者がいることを世界に示そう」という気概をもって研究に励み、1996年にこの世を去るまで大きな功績を残した。
その半生を綴ったのが『科学者の手記』で、故郷を遠く離れた四国松山での苦学時代、京都帝大での勉学と研究生活、そしてビナロンの開発、解放直前の獄中生活、解放直後の米軍政下の南朝鮮での葛藤、朝鮮戦争時の越北とビナロン工業化などなど、激動の時代を生きた一人の朝鮮人科学者の悲哀と怒り、喜びと栄光が記されている。
「科学とはもともと未知の世界の固く閉ざされた鉄の扉を叩き壊して、その中に隠された秘密を明らかにすることである。ゆえに、常に科学者は未来を探求し未来に生きている。この意味で科学は夢の学問であり、科学者は夢多き人たちである。したがって、科学者は祖国の明日を夢見る人でなければならない」
手記のなかの言葉である。李升基博士が多くの人の尊敬を集めるのは、その発明もさることながら、植民地時代から朝鮮人の気概を胸に研究に情熱を注いだ人生そのものが強い印象を与えるからだろう。1969年に未来社から日本語訳『ある朝鮮人科学者の手記』が出版され、在日同胞をはじめ多くの読者を得た。
ちょっと横道にそれるが、十数年前に朝大理工学部の学生がこの手記をもとに『プロジェクトR―李升基博士の生涯』という演劇を行い、DVDを作成したことがある。ドキュメンタリー番組「プロジェクトX」を模倣したものであるが、平凡な日常生活を送る3人の学生が博士の生涯を知り勉学に励むようになるという内容である。過去と現在を対比させながらの演劇は、ちょっとふざけた演出もなくはないが、それなりによく出来ていた。
手記が学生たちを感化した好ましい例であるが、他方、手記の内容を深刻に受け止めた人たちもいる。解放前に李升基博士とともにビナロンの開発を行った人たちである。
京都帝大工業化学科を卒業した李升基博士はすぐには職につけず、指導教授であった喜多源逸の紹介により民間の委託研究を行っていた。ちなみに、喜多教授は李升基博士の手記で名前が出てくる唯一の日本人である。転機が訪れたのは1936年のことである。その前年に米国でカロザースがポロアミド合成繊維「ポリマー66」を開発、これが後に化学メーカー・デュポン社が商品化したナイロンである。当時、日本の主力産業の一つは生糸生産で合成繊維への危機感から日本合成繊維研究所が設立され、李升基博士は研究講師として就任するのである。
そして、「日本の高分子化学の父」といわれる桜田一郎グループの一員として精力的に研究を行い、1939年に「繊維素誘電体の透電的研究」によって京都帝大から工学博士を授与される。そして、その年の10月に「合成一号」と名づけられた合成繊維を開発する。後のビナロンである。植民地時代の朝鮮人の手による世界的な発明に同胞たちは大きな拍手を送った。
反面、日本ではそれはあくまでも日本の発明と報じられ、その時の無念を李升基博士は手記に次にように書いた。
「すべての成果は『大日本』のものに帰してしまった。わたしは朝鮮人、李升基だ。だが朝鮮の存在はひとかけらもない。…とどのつまり、私は『大日本』の化学の名をかがやかしめるのに利用されたのだ」
この文章を読んで、桜田一郎をはじめとする周辺の人たちは、温厚な李升基博士の胸の内を知って衝撃を受ける。しかし、事はそれで終わらなかった。どこからか李升基博士がその発明を桜田一郎がインチキをして自分のものにしたと語ったという噂が流れたのである。おそらく、朝鮮人に反感を抱く者が手記の内容に尾ひれをつけたものだろうが、ちょうどその頃、桜田一郎に文化勲章の打診があり、その噂を気に病んでいたという。しかし、李升基博士はそんなことをいう人物ではないと桜田をはじめ周辺の人たちは信じて、勲章は授与された。
ビナロンの開発過程とこのあたりの事情は、2017年に京都大学学術出版会から出版された古川安『化学者たちの京都学派―喜多源逸と日本の化学』の第3章「繊維化学から高分子化学へ」に詳しい記述がある。古川日大教授(当時)とは科学史学会で面識があり、その噂について筆者も聞かれたことがある。むろん、すぐに否定し在日本朝鮮人科学技術協会(科協)主催による「李升基博士生誕100周年記念セミナー」の資料を提供したが、古川教授はそれを引用文献として活用された。
現在も朝鮮の情報は正確に伝わらず憶測が絶えないが、寧辺に原子力研究所が置かれた時に、所長は李升基博士であったと西側諸国では断定している。根拠は不明だが、裏を返せばそれほどに李升基博士は著名な学者ということである。
ところで、日本では「ビニロン」と呼ぶが、朝鮮ではビナロンである。それは、故金日成主席が製織時の縦糸を朝鮮語では「날실(ナルシル)」というので「비날론(ビナルロン)」と名付けられたからである。なるほどと感心する。
(朝大理工学部講師)