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日本政府には在日朝鮮人の民族教育権を保障する責務がある!

2023年04月24日 10:20 民族教育

「マッカーサー元帥サン。ボクラノ学校ヲゼッタイハナシマセン。ハナスト朝鮮人二ナレマセン」1948年4月、福井朝聯初等学校3年生の児童がマッカーサーに宛てたハガキ(嘆願書)である。50数年後、この類のハガキがぎっしり詰まった段ボール箱がアメリカ国立公文書館内で発見された。

1945年8月15日、日本の敗戦により朝鮮人は36年に及んだ植民地支配から解放された。生活の糧を得るため渡日を余儀なくされた結果、当時の日本には約230万人の朝鮮人がいたとされている。彼らの多くは一国も早い帰国を願ったが、皇民化政策により日本語しか話せないわが子に母語(朝鮮語)を取り戻させることが先決とする者たちがいた。解放後間もなく寺子屋のような国語講習所が各地に生まれ、やがて学校へと発展していった。

1948年1月24日、文部省はGHQの意向を受け、学校教育局長通達「朝鮮人学校の取扱いについて」(「1・24通達」)を発出し、朝鮮人学校の強制的閉鎖を表明した。朝鮮人は学校(ウリハッキョ「私たちの学校」)を死守しようと、日本当局の民族教育に対する弾圧の不当性を広く世論に訴えた。先のマッカーサー宛ハガキ(嘆願書)は、子どもたちが幼いなりにもウリハッキョを守るために懸命に考えた末の行動であった。GHQ軍政部の指令を受け、朝鮮学校が所在する自治体当局は閉鎖命令を発令した。大規模な朝鮮人による抗議行動は山口県で始まり全国に波及していった。

「1・24通達」から3か月後の4月24日、朝鮮人代表と兵庫県知事による交渉が行われている最中、知事を連れ出すため米憲兵隊副司令官と2名のMPが知事室に突入し、朝鮮人に拳銃を突き付けて威嚇した。一人の朝鮮人が知事の机にとび上がって「撃つなら俺を撃ってみい!」と叫び、室内は騒然となった。交渉団の気迫に圧倒された副司令官らはなす術もなく退室を余儀なくされた。その後、知事は交渉団の学校死守の覚悟に押され、学校閉鎖命令の撤回等を認めるに至った。県庁前に集まっていた群衆は、交渉妥結の報を受け大歓声の下で解散した。しかし、これに対しGHQ軍政部は「非常事態宣言」を発令し、日本の武装警官隊による無差別の大量検挙が阪神地区を皮切りに強行されることとなった。世に言う4・24教育闘争である。4月26日には、学校閉鎖撤回を求めて大阪府庁前に集まった約15000人に対し、警官隊が放水で弾圧を加え、一部は発砲を繰り返した。集会に参加していたわずか16歳の金太一少年が銃弾に倒れた。

4・24教育闘争は、在日朝鮮人がアメリカ帝国主義とそれに追随する日本政府の弾圧に敢然と立ち向かい、民族教育権を明確化した闘いであった。命に代えてもウリハッキョを守り抜こうとした朝鮮人の闘いは朝鮮半島を含む全国的な連帯の輪へと広がり、3・1独立運動に匹敵する歴史的事実として記憶されている。

しかしながら4・24教育闘争以降も朝鮮学校に対する弾圧政策は止むことなく今日に至っている。21世紀に入っても日本政府は納税の義務は日本人同様に課しておきながら、「高校無償化」、「幼保無償化」、さらにはCOVID-19に係る「緊急学生支援給付金」等から在日朝鮮人を排除している。「多文化共生」の推進を謳いながら、朝鮮に繋がるものはすべて排除する日本政府の人権感覚は異常であり、何としてでも正さなければならない。75年が経過しているにもかかわらず4・24教育闘争は未だに終わっていない。歴史に真摯に向き合えば、日本政府には在日朝鮮人の民族教育権を保障する責務があるはずである。

日本朝鮮学術教育交流協会はウリハッキョを死守すべく不当な弾圧に敢然と立ち向った在日朝鮮人の「4・24教育闘争」を胸に刻みながら、今後とも全国の仲間と連帯して民族教育権を保障するための活動に取り組んでいく決意を改めて表明する。

2023年4月24日

日本朝鮮学術教育交流協会

会長 藤野正和

(朝鮮新報)

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