〈学美の世界47〉「はくぶつかん 博物館」/崔栄梨
2022年12月07日 09:00 寄稿紹介する2つの作品は、全く違いながらも、相似形に思える。博物館というモチーフ、洞窟のようなフォルム。まるで、入り口と出口のようだ。
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とてもミニマルな造形で、一目で何を描いているのかを特定できないが、「ウリマルはくぶつかん」という文字に引っ張られ、これが展示物を収蔵する空洞の建物、もしくは洞窟のようなものではと辿り着く。(作品1)
部屋のようなケースのような区切られた空間には、「かきゃちゅる(日本語で言うか行)」や「あやちゅる(あ行)」が陳列されている。形や大きさは様々、博物館に並ぶ整然とした陳列物というよりも、まるで今生えてきたような、有機的な息吹を感じる。声に出して読んでみる。自分も1年生の頃に行った初めての発音練習が思い出され、嬉しくなる。口をあけ声を発するうち、ふと思う。博物館であることは確かであるが、同時に、発音する大きな口にも見えてくる。博物館の陳列物たちは、大きな口の歯。本当に生えてくるものだ、と、妙に合点がいく。本当に命がある。塗りつぶされたところや点線が、虫歯に見えてきてユーモラスだ。生え始める歯。躍動するこのリズムは、発音のリズム、声を発する喜び、初めて自分の言葉を手にした喜び。言葉の発芽、始まりの躍動を感じる作品だと思った。初めてのウリマルと共に、その躍動や喜びまでも大切に保管されているような生きた博物館だと思う。
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写真だとわからないが、これは小さな子供だと5、6人は中に入ることのできる巨大な立体物だ。外から見るとまず大きさに圧倒される。そして中に入ると、そこに広がる壁画、天井画が物語る世界観に圧倒される。(作品2)
モチーフはニンジンで、描かれているのはニンジンが歩んできた壮大な歴史だ。古代のニンジンは2種類に分かれ、それぞれの生活を懸命に生きた。試練があり、運命があり、しかしそれを受け入れ乗り越えながら別々の道を歩んだが、出会い、協働し、またそれぞれの生活に戻る。なんとも愛しく健気なニンジンたちの姿が私の心を掴むのは、何よりも作者からニンジンたちへの愛が感じられるからだ。
自分が作ったキャラクターであるのに、そこにいる者たちは、作者の代弁をする者として存在するのではなく、あくまで自身の生活を営んでいる。日々への愛、生活への愛、それを見ている時、私はニンジンに人間を重ねている。二つが重なった時、人間はなぜ、ニンジンたちのようになれないのかと感じる。同時に、生きづらく苦しい人間社会にも、一縷の希望があるのではないかと感じさせる。それぞれ違うものたちが、手をとり協働することが、現実においてあまりに難しいと日々実感しながらも、諦めてはならないと感じる。
ウリマルの発芽と、壮大な歴史のまとめは、12年間の民族教育という一つの大きな入れ物を感じさせもする。これから、どんな言葉を獲得していくのだろう。これから、どんな歴史を目の当たりにしていくのだろう。そして私たち大人は、かれらに何を用意してあげられるだろうか。
(在日朝鮮学生美術展中央審査委員・福岡初級美術講師・九州中高美術部美術部講師)