〈生涯現役〉金敬蘭さん/女性同盟中央江東支部委員長を43年務めた(上)
2008年03月14日 11:59 暮らし・活動枝川の歴史の生き証人
生まれたのは山陰の小京都といわれる島根県津和野町(現在・市)。満州事変の翌年、1932年のことだった。慶尚北道から裸一貫で渡日してまもない両親には、雨露をしのぐ家もなく同胞たちでごった返す飯場の1階が仮の宿になった。小学校1年にあがるときに、山口県大津郡(現在の長門市)仙崎に移った。土木の仕事に就いたアボジはよく働く人で、その頃には大きな家に住むようになっていた。
「家にはいつも青年や同胞たちが出入りして、オモニが彼らを温かく迎え、いつも炊事場に立ち、腹いっぱいたべさせていた」と懐かしそうに振り返った。
小学生の頃は、学校でも差別がひどく、弁当に砂を入れられたり、「朝鮮人、キムチ臭い」などと罵声を浴びせられたという。その後、女学校に進み、解放を迎えた。翌年には国語講習所でウリマルや朝鮮の歌を学び、民青が主催する3.1学院主催の演劇の巡回公演に参加するなどめまぐるしい日々を過ごした。
自宅の一部を朝聯の大津支部として提供、県内はもとより中央本部からも活動家たちが集う「拠点」になっていた。そんな中、後に敬蘭さんの夫となる金永植(登録名・李判述)さんと出会うことに。愛国の志が高い金青年をことのほか気に入ったオモニ・金守寛さんが、娘婿にと惚れ込んだのがきっかけ。「否も応もない時代だった」と敬蘭さんは照れる。