〈学美の世界 38〉多様な表現のリアリティと感性の進化/朴一南
2022年02月20日 09:12 寄稿「憂い」「そわそわ」「どきどき」など複雑な人の感情や音楽的ニュアンスを表そうとすると、具体的な実像は浮かび難く、アクションペインティングのような抽象的な表現になりがちだが、かえってその方が複雑な感情や様子をリアルに表せるようだ。
中髙生、特に美術クラブ生の作品を見ると抽象的表現がたまに見られるが、ハッセン(学生=児童・生徒)たちは決してごまかしや遊びでこのような表現を選ばない。なぜならばハッセンたちはリアルな表現を好むからだ。
抽象的と思われる表現も、心模様の変化など複雑な感情をリアルに表したいがための一種の必然的表現なのだ。
そのように抽象的な造形による表現は、他方の具象的表現である物事の形態や様子を視覚的な説明を加え表す表現とは違い、非常に感覚的で作者の感性、造形的センスが如実に現れる。
独特な感性の世界が造形的に構築され感覚的に描かれた色や形、筆跡や触覚を刺激する絵肌などが現れた画面はそれだけで強い説得力を持つ。それを感じたその瞬間、作者と鑑賞者の間に感性のキャッチボールがなされ、鑑賞者が何らかの実体験に基づいた実感を感じ取った時、作品はリアルな存在として増幅される。
そのような作品は、作者の豊かな感性と多様な表現技法に対する理解があって創られ、そして何よりも大きな要素は作者の心の成長と共に進化する感性が大事なようだ。
その感性の成長は、作者が周りの刺激を感じ取りながら育まれる人間的成長を表す。
また、届けられた宝物を感じ取る側によって大きく評価が異なるのだが、学美の審査員たちの多くは作家活動に携わっているため、作品を選ぶ審美眼はハッセンたちの多様な表現と世界に対し幅広く救い上げることを可能にしている。
そして、この種の造形言語の作品は言葉などの色んな壁を難なく超え、世界に届く共通言語でもあることも忘れてはならない。
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是非カラーで見て欲しい作品だ(作品1)。
赤、青、黄、緑、白など形の定まらない色が画面に散乱している。まるでカオスのように張り裂け、弾け、破裂し、エネルギ-が飛び散った混沌とした世界は、人類の傲慢な開発によって破壊された自然に対する慈しみを感じる。
その証拠に画面を丹念によく見ると、こんな破壊しつくした混沌とした世界に何か得体の知れない小さな生き物が息づきうごめいている。
そして、そんな混沌とした画面の真ん中近くに空けられた穴、突然ぽっかりと空けられた空虚な穴は何を意味しているのか、何を引き出そうとしているのか、見る人にさまざまなことを想起させる。
このハッセンの巧みな造形は強いメッセージとして観る者に伝わってくる。
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黒い大地に生えるヤシの木、太陽、海など部分的には何を描いたのかはわかるが、全体の構成としてどのようなストーリなのか、何を伝えようとしているのかは直ぐには伝わってこない。
ただ、画面から漂う感覚の鋭さは観る者の感性を刺激する(作品2)。
描き方に独特な特徴があるのだが、それは画面を構成する筆跡やスプレー、ローラーなどを含む作業の痕跡を見るとほとんど最後まで描かず途中で終えている。
この途中で終える、筆をおくという行為は作者の感覚を表し、この絶妙な擱き方、感覚に驚かされる。
そして、最後に描いたと思う赤い筆跡は画面から垂れ落ちるのも気にせず驚くほど大胆で、迷いの無い筆後を残し一気に描かれている。
地道な作業の積み重ねだけで構築された画面とは違い、瞬間的な判断と感覚による要素の組み合わせによって構成されたその画面から漂う雰囲気は一種の品をも感じさせる。
何年か前からこの作者の作品を観ているが、作品とともに感性の進化に感心させられながら画面から溢れる感覚の鋭さは感性の伸びを感じる。
あの世界的に有名な現代美術作家、バスギアを思い起こさせる。
(在日朝鮮学生美術展中央審査委員会委員長、神戸朝鮮高級学校美術担当)