〈明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―〉大阪弁護団(上)
2021年10月02日 09:00 民族教育「三位一体」闘争のはじまり
2013年1月24日に始まった高校無償化裁判。当時、愛知とともに提訴に踏み切った大阪では、国を相手に大阪朝鮮学園が原告となり行政訴訟を起こした。そして周知のとおり、2017年7月28日の大阪地裁は、無償化制度から朝鮮高校を除外した国の不指定処分に対し、その取り消しと子どもたちへの就学支援金支給を命じる原告全面勝訴の画期的な判決を言い渡す。しかしそれもつかの間、国が控訴し行われた二審判決(18年9月27日)では、歴史的事実に基づき民族教育の価値を判示した一審判決を全面から否定。その後の最高裁も国に迎合する司法判断をしたことで、2019年8月27日に原告敗訴が確定した。
闘いの軸
裁判準備が本格的に始まったのは、いまからちょうど10年前の2011年に遡る。
大阪では、当時すでに地方行政による民族教育への介入が露骨化しており、とりわけ補助金の交付をめぐっては、08年2月に大阪府知事に就任した橋下徹氏が大阪朝高と生野初級を視察(10年3月)したうえで、支給の前提として「4要件」(①日本の学習指導要領に準じた教育活動を行う、②学校の財政状況を一般公開する、③特定の政治団体と一線を画す、④特定の政治指導者の肖像画を教室から外す)を提示。結果的に府・市ともに、朝鮮初、中、高級学校への各補助金を2012年3月までに全面凍結した。
時を同じくして当時の民主党政権は、10年11月に発生した延坪島砲撃事件を理由に高校無償化法(10年4月10日施行)の適用に関する朝鮮学校への審査手続きを凍結。これにより高校無償化からも除外される見通しが極めて現実味を帯びるなか、学園関係者たちは2011年5月25日、後に並行して行われる2つの裁判(無償化裁判、補助金裁判*)で代理人を務めた丹羽雅雄弁護士を訪ねる。そして訴訟代理人としての協力を要請した。
1980年代後半から、軍属の戦後補償や指紋押捺拒否、在日高齢者の無年金問題、入居差別など在日朝鮮人と関連する数々の裁判を担当してきた丹羽弁護士と学園との繋がり。その最初のきっかけは2005年に兵庫で初開催された「多民族共生教育フォーラム」だ。当時、学園関係者がスピーカーとして同フォーラムに参加、外国人学校の制度保障を主な課題目標に行われたこのイベントで、司会を務めたのが丹羽弁護士だった。以降、同氏は学園関係者からの相談を受け、東大阪市が大阪朝鮮学園に対し大阪朝高のグラウンド明け渡しを求めた訴訟(07年1月31日に市側が提訴、09年11月20日に和解成立)の学園側代理人を務めることに。かれにとってこの裁判が「朝鮮高校やそこに通う生徒たちとの出会い」となった。
朝高グラウンド裁判以来となる協力要請に対し「加害の歴史に向き合うという立場で迷わず引き受けた」と丹羽弁護士。その後、弁護団発足に向けて準備する過程で、ある考えが脳裏に浮かんだという。
「今回の裁判は当事者が中心になる必要があるが、それと同じくらい重要なのは、法律という狭い枠に閉じ込めず、国家の弾圧や抑圧に対して反対世論をつくりあげて闘うことだ。社会運動としてこの裁判を闘わなくてはならない。当事者、弁護団、支援者が三位一体となることが、この闘いの軸になる」(丹羽弁護士)
2011年7月22日、弁護士11人と学園関係者、支援者が集まり、朝鮮学校の司法闘争と関連した第1回学習会が開かれた。実質的な弁護団発足日となったこの日を境に、関係者たちは訴訟準備を兼ねた同学習会を重ねていく。
「決意」に励まされ
その頃、学園関係者たちは、三位一体を闘いの軸に据えた丹羽弁護士の「決意」に、大きく奮い立たされていた。