金粉任さん、 家族史「祖国の統一を願ったオモニたちの一生〉刊行
2012年11月16日 14:34 文化・歴史実直に生きた人間の証
このほど、「祖国の統一を願ったオモニたちの一生」と題する約200ページの本が、同胞女性金粉任さん(76)によって出版された。1980年、65歳で死去した母、李月守さん(女性同盟岩手県本部元委員長)はじめ8人の兄妹たちの家族史である。
故郷、満州、日本へ
金さんは「韓国併合」から数年後、1936年、朝鮮慶尚北道聞慶郡三北面巨山里で産声を上げた。父の金永稷さんは中国・東北地方から日本へと働き口を求めて不在だった。金さんは3歳のとき母に連れられて渡日。父と合流した母は、長兄を頼って岩手県盛岡へ。言葉も分からず、字も読めない異国暮らしの中で、両親は懸命に働いた。ボロ買い、米の買出し、土木工事の労働者、川の砂利採り、くつの修理屋、くず鉄拾い…。そして、家族は10人に。そんな苦難の道を歩んだ一家が、祖国解放を迎えたのは盛岡市・厨川の農家の借家だった。
9歳だった金さんは解放を知って大喜びする両親の姿を見て、「戦争に勝った、勝った」と叫び声をあげ、近所中に触れ回ったという。それを知った大家が金さんの家に怒鳴り込んできたことも。「道を歩いていても、『にんにく臭い』『チョウセンジン!』と石が飛んできた。先生にまでいじめられて…。『なぜ、朝鮮人だからといじめられるの? なぜ、貧乏だといってからかわれるの?』。子ども心に悔しさを抑えきれなかった」と振り返る。
そんな頃、盛岡市内に朝聯によって夜学が開設され、金さんも日本の学校を終えて、ここに通うようになった。「朝鮮語の授業や朝鮮の歴史や文化、民謡や踊りまで教わった。ここで、日本帝国主義が朝鮮を植民地にした歴史、日本に連行されてきた同胞たちの受難、日本に奪われた文化財の数々…。知れば知るほど悔しくて、祖国を二度と失ってはいけないと思うようになった」と金さん。
そんな中、東京に朝鮮学校が創立されたという大ニュースが飛び込んできた。両親は苦しい家計から長兄をさっそく東京に送り出した。しかし、火の車の家計にはそれが限界だった。しかし、金さんは頭で理解しても、心は納得できなかった。
どうしても、朝鮮学校に行きたかった金さんにとって、それまでの日常は色あせ、もう毎日の日本学校への通学は耐えられないものとなっていった。中2の夏休みの後、学校に行くふりをして、人里を避け、家から遠い松林のなかに居場所をみつけ、一人で過ごすようになった。しかし、約10日ほどして、心配した担任の家庭訪問によって母にばれた。
母は金さんの日記帳から「両親は兄だけを可愛がる。私ばかりこき使う。私も朝鮮学校へ行きたい。行きたい」という心の叫びを知った。いまでも、そのときの母の言葉が忘れられないという金さん。
「お前がそんなに行きたいなら、3年生になってから行きなさい。そのかわり、明日から学校に行って、一生懸命勉強し、編入試験に受かるようにするんだよ。ぞうきん縫いでも何でもしてお前の学費は私がなんとかする。アボジは私が説得するから」
盛岡から東京朝鮮中級部へ
この言葉によって、金さんの運命は大きく変わった。翌1950年の春、盛岡を発ち、東京朝鮮中級学校3年に編入した。その直後、朝鮮戦争の勃発。時代の暗転のなか、学校をつぶそうとする当局の弾圧に抗する闘争にあけくれた。その一方、くず鉄商をやりながら子どもたちを遠く東京まで送り民族教育を受けさせた両親は、突如、商売を止めることに。
「どんなに貧しくても、どんなに山ほどの金を積まれても、日本の戦争特需のお先棒をかつぐことはできない」と。まだ、下に6人の弟妹を持つ金さんは、高2の1学期で退学、盛岡に帰郷して、夜間学校の教員になった。
そこでは思いもかけない変化が起きていた。貧しさゆえに故郷で学び舎の門さえくぐれなかった母が、女性同盟岩手県本部委員長として活躍している姿であった。成人学校で朝鮮の言葉や文字を習った母は、どんな集いでも堂々と演説して、同胞たちを力強く励まし、その一方で、同胞の冠婚葬祭であればどこにでもかけつけて、世話を焼いていた。
「みんなの前でアリランを独唱する姿を初めてみて、涙を抑え切れなかった。母は学校に行ったこともなく、子どもの頃から子守りをしたり、野良仕事をしたり…。どんなに苦労をしてきたか…。歌っている姿なんて想像したこともなかった。努力に努力を重ね、言葉を取り戻し、字を習い、同胞女性たちに尊敬される委員長になって。ただ、涙を流しながら、母の歌を聴いていた」
金さんは今度の本で、その後、教員養成所第2期生にとして学び朝鮮学校の教員、女性同盟千葉支部支部委員長、埼玉県本部副委員長などを歴任した金さんの活動の日々が率直に綴られている。辛かった日々もめげずに生きてきたたくましい人生。そして、祖国のために尽くしたいと朝高時代に帰国した5人の弟妹たちへの思いにも圧倒される。59年の第2帰国船で帰国した次男を皮切りに四女、三女、三男、五女の5人が次々と帰国。それぞれ祖国の懐で金日成総合大学などで学びながら、体育教師、理容師、教員、医師として夢を叶えた。
金さんは約20年前、祖国訪問の際、母の死に目に会えなかった兄弟たちに、祖国統一や民族権利の獲得のために懸命に闘った母の一代記を書くと約束しながら、なかなか果たせなかった。しかし、2ヵ月半ほど前、夢枕に立った白いチョゴリの母の姿に励まされて、原稿の執筆を始め、何かに追い立てられるようにペンを走らせ約2週間で脱稿。その直後に低血糖や胆石、腎臓などの合併症で倒れ約1ヵ月、入院した。10月初めに退院すると、友人たちの勧めや家族の協力ですぐ本作りに着手、1ヵ月というスピードで完成させた。
「いいことだけを書いた訳ではない。失敗したこと、辛かったことも赤裸々に書いた。でも、そこには実直に生きた人間の証がある。そこから力や勇気、教訓を汲み取ってもらえれば」と金さんは語った。
(朴日粉)