映画「わたしは分断を許さない」/堀潤監督×安田菜津紀さんトークショー
2020年03月30日 10:33 文化・歴史「小さな主語」で対話を重ねる
ジャーナリストの堀潤さんが、国内外の様々な社会課題の現場で生じる「分断」を追ったドキュメンタリー映画「わたしは分断を許さない」(www.bundan2020.com)が、3月7日よりポレポレ東中野ほか各地の劇場で公開されている。10日には、監督の堀潤さんとフォトジャーナリストの安田菜津紀さんによるトークショーが行われた。
本作では、長年にわたり堀さんが取材を続けてきた東京電力福島第一原子力発電所事故後の現場をはじめ、香港の「逃亡犯条例」改正案から発した民主化デモ、東京出入国管理局のクルド人難民、イスラエルとの緊張状態が続くパレスチナ・ガザ地区、辺野古新基地建設に抗う沖縄、「近くて遠い国」とされる朝鮮など、それぞれの現場で深まる「分断」をキーワードに、一見バラバラに見える事象を一つの物語として紡ぐ。
堀潤監督が語るのが「真実を見極めるためには主語を小さくする必要がある」という言葉だ。世界的に広がる経済格差、イデオロギーの対立が差別や排斥を生み、国益や経済が優先される中で切り捨てられる「個人」。本作は「被災者」「難民」「活動家」といった大きな主語ではない。一人ひとりの声をすくう中で、「分断」を手当てするためのヒントを探った。
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映画上映後、堀潤監督とフォトジャーナリストの安田菜津紀さんによるトークショーが行われた。安田さんは、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める一方、東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。以下、トークショーの要旨。
安田:「大きな主語で語らない」ということが映画では語られていたが、私たちは、主語のすり替えにも気を付けなければいけないと感じた。例えばシリアでは、デモ隊のことを、暴徒と呼んだり、テロリストと呼んだりする。常々、これが正しい主語なのだろうか、間違ったレッテルが貼られていないだろうかということに細心の注意を払わなければいけない。
堀:大きな主語というのはイメージや主観に近いもの。「被災地は」という主語も大きな主語。今回、映画のベースになったのは、国と東京電力に対し、福島第一原発事故による被害の回復を求めた生業訴訟だ。法廷で原告側の住民の陳述を聞きながら、100人いれば100通りの被災の状況、課題があることを感じた。「いまだ被災地は苦しんでいる」などというレッテルで語るメディアの伝え方が、地域を分断してしまってはいないか。自身の加害性というものについて問い続け、丁寧に小さい主語を訪ね歩く中での発信が大事だと感じた。
安田:映画の中で印象的だったのが、シリアで拘束されたジャーナリストの安田純平さんの「物理的に、地理的には離れているから中東情勢は関心がないのかもしれないけれども、そういう人は隣近所の人が死んでも関心がないんじゃないか。でもそうなってしまうと、人間社会は崩壊してしまう」という言葉だった。遠い国の痛みが他人事であれば、近くの人の苦しみというのも気づけない。「同じ市民として」という目線を私たちは持てるのか、あるいは取り戻せるのかが問われていると感じる。
堀:原発事故を取材する中で、声をあげても届かない孤立感や、突然なにかを奪われてしまう状況などは、世界中のさまざまな現場で起こりうる出来事だと感じた。これまでの自身の10年間の取材を振り返り、そこに焦点を当てようと思った。
安田:遠い国で起きていると思いがちな出来事が、堀さんの映画を見ると点と点が線でつながっていく。不思議な感覚を持った。暮らしを奪われた福島の人の声というのは、故郷を奪われたシリアの人々の声に重なると思って映画を観ていた。私たちは、どうやって他者に対する想像力の梯子をかけていけばいいのか。
堀:私は、日本のNGO「日本国際ボランティアセンター」が行っている日本と平壌の学生交流のための訪朝団の一員として、18年、19年に平壌を2年連続で訪問した。空港に到着して、街中を見渡しながら、ビルがきれい、タクシーが走っている、ハイヒールを履いている、スマートフォンを持っていると、何を見ても一々驚いていた。でも、よくよく考えてみれば、ビルだって建つだろうし、ハイヒールも履くだろう。このご時世、スマートフォンもあれだけ普及しているのだから、持っているのが当たり前。いままでどんなイメージでこの国を見ていたのだろうか。知らず知らずのうちに、こうあるべきだ、こうに違いないという既存のイメージの中で生きてきたことに気づかされた。最初は互いに疑心暗鬼だった日朝の学生たちは対話を重ねる中で交流し、交流から信頼が生まれ、信頼の生まれた先にさまざまなことを喋ることができる自由があった。その過程はすごく難しい。固定化されたイメージから、相手に対する共感を持つ忍耐強い交流こそが分断を克服する過程だと感じさせられた。
(金宥羅)