〈朝鮮民族の美 31〉定林寺石塔(7世紀初期・扶余)
2012年07月27日 11:43 歴史百済は仏教を受け入れ、寺院を初めて建立した時は、高句麗にならって中国の望楼式木塔を仏塔としたのであるが、次第にそれは朝鮮に豊富にある石材による石塔になっていった。
この1400年前に建てられた塔が、現在完全な形で、そのまま残っていることは、石造物であるとはいえ、まことにめでたく奇跡的な事である。
この塔は、木造建築を石材によって忠実に模倣したものであるが、この石塔の前に造られた弥勒寺石塔(現在、東壁と北壁の一部を除いて崩壊し、やっとセメントの支えによって、残念な形で保存されている)の経験に学び、塔の各部を簡素化または合理化し、石材の数を減少・整備しながら百済石塔の形式を整備して、いわゆる百済式石塔の典型的形式を作り上げた。
豊富にある別の資材を使って、目的とするものを作り上げる。これは創造性の発揮であるが、百済人は創造性に加えて見られるように、芸術性を付け加えた。
この石塔は、最下部に地覆石の上にやや低い一層の基壇があり、その上にエンタシスをもった柱(壕碑顕奄逆)が4本立って初層となり、塔身の幅が上層に登りながら急減すると共に、薄く広く伸びた屋根の幅も調和を保ちながら逓減し、かつ四隅が軽く上転して木造屋根のような軽快で美しい効果を出している。
(金哲央)