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〈読書エッセー〉晴講雨読・宇宙を論じた洪大容とカント(上)/任正爀

2026年02月18日 08:11 寄稿

夜空に輝く星の向こうにはいったい何があるのだろうか、あの星たちにも人間と同じような生命体が存在するのだろうか、宇宙はどのように生まれ、終わりがあるのか――

一時の宇宙論ブームの陰には、現代科学がこのような疑問に答えてくれるかも知れないという期待があったのではないだろうか。たしかに、現代科学はビッグバン以後の宇宙の生成発展の明確なシナリオを描いただけでなく、われわれが存在する宇宙も数ある宇宙の一つに過ぎないという可能性を明らかにした。実証性が科学に課せられた要請とするならば、宇宙論はその限界に近づいたといえなくはない。

そのような宇宙論が自然科学の課題として提起されるようになったのは、いつ頃からだろうか。おそらく、それは18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カント以降である。もちろん、それ以前にもデカルトやニュートンも宇宙論を唱え、遠い昔ギリシャの哲人たちも宇宙に関して思いを巡らしていた。しかし、それらもカントのように、それ以前に得られていた自然科学知識を総合し、この宇宙の構造と生成消滅を体系的に論じたものではなかった。

現在、カントの「星雲説」と知られている宇宙論こそは、後にエンゲルスがその著者『自然弁証法』で指摘したように、初めて宇宙に歴史性を持ち込んだ、現代宇宙論の先駆をなす。

同じ頃、東アジアの朝鮮で、やはり宇宙の構造と生成を論じた一人の学者がいた。

洪大容の素描画

「星のそのまた向こうに星があり、宇宙空間は果てしなく、星たちも限りなく…銀河は様々な星の世界が凝集して一つの世界を形成し、空界(宙)で旋回する大きな環をなし、その中には数千万の世界を包括し、太陽と地の世界もその中の一つに過ぎぬ。これが宇宙空間の一つの世界である。しかし、地球での主観がこうで、地球から見える範囲外に銀河世界のようなものが幾千億か知れず、われわれの小さな目を信じて軽率に銀河を一番大きい世界と規定することはできない」

これは実学者・洪大容(1731-83)の著作『毉山(ルビ:ウィサン)問答』の一節である。

18世紀・洋の東西の宇宙論、その本質は自然哲学というべきもので、ちょっと専門的になるが、今回は洪大容とカント二人の古典的著作を取り上げたい。

18世紀の朝鮮は文芸復興期といわれた英祖・正祖時代で、実学が盛行した。なかでも、洪大容は自然科学分野に大きな関心を持ち、自宅に「籠水閣」という私設天文台を設置して天文観測を行ったという。また、1年間「桂坊」という役に就きイ・サン(後の正祖)の学問を指導したこともあった。燕行使の一行の随員となって北京を訪れた際には、清の国立天文台「欽天監」を訪問、イエスズ会士の宣教師・ハルレンシュタイン(劉松齢)、ゴガイスル(鮑友菅)の二人と会見し、その内容を『劉鮑問答』として残している。

今に伝わる洪大容の素描画は、その時に親交を深めた中国人学者・厳誠が描いたものである。

さらには実用応用問題を中心とした数学書『籌解需用』を著したが、三角関数を朝鮮に初めて紹介したのはこの本である。

そんなかれが自己の思想を集大成したのが、実翁と虚子という二人の人物による『毉山問答』である。

『毉山問答』

儒学のすべてを修めた虚子は北京に赴き自身の見解を披瀝するが、誰からも相手にされなかった。失望したかれは世を捨てるつもりで中国十二名山の一つで、華夷の境にある毉巫閭山(遼寧省北鎮市)に入る。そこで実翁と出会うが、その容姿から優れた学者と判断した虚子はかれに教えを請う。

実翁は人物を外見のみで判断した虚子の軽率さを叱り「権力に惑わされれば国を危機に落とし、学術に惑わされれば世を汚し、女食に惑わされれば家を滅ぼす」と諭す。

さらに、いくつかのやり取りの後、自分が古い学問に固執していることを自覚した虚子は、改めて「大道の要」は何かと質問する。「大道」とは宇宙全体と人間の進むべき道と解釈できるが、そこで実翁はその本源は宇宙にあるとして、その生成と構造について語るのである。

「寥廓な太虚(宇宙空間)に充満しているのは気である。内も外もなく始めも終わりもなく、積もった気が凝集して物質を形成し、虚空に回転しながら留まった、いわゆる地球、太陽、月、星たちはまさにそういうものである。地球は水と土で形成されているが、その形体は円く、少しもやむことなく回転しながら虚空に浮いているからこそ、すべての物体がその表面に定着できる」

無限の宇宙空間と気による万物の形成、円い天体とその回転による引力、順次これを解き明かすように問答が進み、ついには太陽系・銀河系を包括する階層的構造を持つ宇宙無限論に至る。

当時まで朝鮮の伝統的宇宙観は「天円地方」説に代表される地を平面とする天動説であった。最近、地動説をめぐる宗教者と科学的真理を追究する人たちとの葛藤を描いた漫画『チ。地球は動いている』が話題となったが、東洋では天文学は暦書作成に主な目的があり、地動説への関心は低かった。そんななか、洪大容は中国を通じて得た西洋科学知識と気一元論哲学、そしてすべてを相対化する方法論を用いて、天動説から地動説への移行を果たし、独自の宇宙論を構築した。さらに、『毉山問答』の後半では気による様々な自然現象の解明を試みている。

しかし、残念ながらかれの業績は、当時の科学発展に影響を及ぼすことはなかった。というのも、『毉山問答』を含む著作集『湛軒書』(湛軒は洪大容の号)は生前には刊行されなかったからである。『熱河日記』でかれの地転説を紹介し、墓誌銘を書いた朴趾源でさえその存在は知らなかったという。

洪大容の家門に伝わっていた原稿を基に、『湛軒書』が活字本として出版されたのは1939年で、死後136年を経てのことである。その時、校正を行ったのは歴史小説『林巨正』の作者で、解放後、朝鮮の初代内閣副首相を務めた洪命憙である。

(朝大理工学部講師)