〈記者らが記した歴史の瞬間③〉苦難の日々、途絶えさせなかった声/朝鮮各地で現地取材
2025年10月26日 10:00 歴史平壌駐在記者の活動
1988年12月、朝鮮新報社の平壌支局が開設された。祖国の社会主義建設の現場を直接取材し、在日同胞に知らせる報道の新境地が開かれた。平壌支局は、89年に平壌で開かれた第13回世界青年学生祭典、90年9月の金日成主席と金丸信・元自民党副総裁の会談、3党共同宣言の発表などの歴史的現場にも立ち会った。
しかし予期せぬ事態に立たされた。1990年代後半、朝鮮人民は「苦難の行軍」に突入した。
金日成主席の逝去、ソ連・東欧社会主義陣営の崩壊による貿易市場の喪失、敵対勢力の圧殺策動、たび重なる自然災害などに直面し、食糧難、エネルギー不足などに見舞われた。工場は息を潜め、人びとの表情から笑顔が消えた。
抗日武装闘争期の38~39年にかけて、朝鮮人民革命軍が迫りくる敵と戦いながら国境一帯へ進出した100余日の行軍は、歴史に「苦難の行軍」と記録されている。96年1月1日、「労働新聞」、「朝鮮人民軍」、「労働青年」の共同社説は、重い試練が立ちはだかる今日、朝鮮労働党は朝鮮人民たちに「苦難の行軍」精神で生き、闘うことを要求していると報じた。
日本では朝鮮の経済的苦境に対する悪宣伝が流布された。平壌駐在記者たちは自身の使命を模索し、取材現場に足を運び続けた。

連載「水害を勝ちゆく祖国人民たち」(全5回)の最終回には取材後記も共に掲載された。(1996年8月23日付)
96年7月末、前年に続き朝鮮中部から西海岸にかけた広い地域が甚大な豪雨被害を受けた。翌8月、傷跡が癒えない黄海南北道と開城市の12の市と郡に記者たちが出向いた。
記事には降水量、被害住民数と死亡者、被災世帯数、被害額、農耕地の被害面積、破壊されなどの被害情報が詳しく記され、被災状況を鮮明に写した写真も掲載された。土砂が崩れ、アパートは水に浸り、田んぼや農作物も土に埋もれた。しかし、かれらが見たものはふいに訪れた自然災害だけではなかった。復旧作業を続ける人民たち、生活の安定のために昼夜問わず走り回る活動家たち。紙面には「試練は必ず克服できる」、「奮い立つ祖国人民たちの巨大な力」、「わたしたちは立ち止まらない」などの力強い見出しが並んだ。この水害に関する連載のタイトルは「水害を勝ちゆく祖国人民たち」。祖国に対する信念なしには書けない記事だった。
記者たちは、自然災害が4年目に至った97年、干ばつの被害、在日同胞や日本の市民団体たちの支援物資が届く様子と共に、完成すれば朝鮮最大の水力発電所となる安辺青年発電所の建設現場の様子や食糧問題解決のため努力を重ねる朝鮮人民の姿を伝えた。

「金正日総書記の5年間の現地指導に見る共和国経済」と題した特集記事(1999年8月10日付)
98年、朝鮮創建50周年を前に、朝鮮初の人工衛星「光明星―1」号の打ち上げが成功し、99年には、食糧問題、エネルギー問題解決のための経済政策が実り始めた。復興の兆しが徐々に見えだす過程で「草を肉に変える」、「ジャガイモ農事革命」、「第2の千里馬運動」、「道険しくとも笑って歩こう」など数々の時代語が生まれた。そして2000年10月、ついに朝鮮労働党55周年の閲兵式で「苦難の行軍」終結が公式的に宣言された。
“団結したから打ち勝てた”
2年後の2002年、本紙記者3人と現地ガイド、運転手の5人で構成された取材団は苦難の時期、人民たちに力と勇気を与えた金正日総書記の現地指導、その現場となった工場や農場を中心に朝鮮各地に訪れ、「苦難の行軍」を体験した人びとの生の声に耳を傾けた。
最初の取材地は、330を越える中小型の水力発電所を自力で建設した慈江道・江界。通常、軍需工場が集中する慈江道は立ち入りが制限されている。金正日総書記の格別な配慮により実現した取材だった。苦難の時期、江界の人びとが発揮した自力更生の精神は「江界精神」と言われ、各地の活動を鼓舞した。

連載「試練を打ち勝った人びと」
こうして始まった朝鮮各地で記者たちが行った取材の内容は「試練を打ち勝った人びと」(02年2月8日~6月21日、14回、朝鮮語版)という表題で連載された。
記事では「電力不足で工場設備も稼働しなかった」、「食べられず体を動かせない同僚の姿」、「労働者の子どもが孤児になる場合」、「家財を食料に変えた」、「50年代の戦争より『銃声のない戦争』がもっと辛かった」など当時の状況が包み隠さず語られている。
試練に直面した人民は絶望に立ちすくむのではなく、手と手を取り合って苦難を乗り超えていった。
平壌南道の炭鉱夫たちは、厳しい食糧問題を解決するためにも自身の任務に忠実に炭鉱を掘り出し、仕事を終えた後は、やっとのことで準備した弁当を分け合って食べた。黄海南道の農民たちは普段の農業に加え、多くの力を要する土地整理事業を進めた。人びとは食糧が足りなければ、泥炭や草の根で作った「代用食品」を食べることもあった。
取材対象に共通していたのは、自らの力で困難を打開し、突き進む心意気だった。
「苦難の行軍」は、未来を見据え自ら厳しい道を進んだ朝鮮の選択だった。国家と人民の尊厳を守るための試練であった。

2002年1~3月に朝鮮各地を回った取材団
当時、取材団のメンバーだった本紙の金志永編集局長は、試練の時期に朝鮮が試練に打ち勝つことができたのは「一致団結して力を合わせたからだ」と強調する。「金日成主席の時代から人民はそのようにして生きてきた。朝鮮以外の国ならば『苦難の行軍』のような状況下で崩壊は免れなかった」。
取材が行われた02年当時も、経済的な厳しさがすべて解消された。しかし、未来への展望を物語る人びとの表情は明るかった。
取材団は、「連載を終えて」という記事の最後に「取材用車の走行距離、総5495㎞。試練の雨風の中、祖国における混然一体を確認する道だった」と記した。
「苦難の行軍」は、2025年を生きるわたしたちにとって歴史用語となった。しかし、試練の時を生き、闘い、打ち勝った人びとの心を知ることはできる。紙面に登場した人びとは歴史の証言者であり、朝鮮が必ず勝つと信じてそれを記した記者は勝利の歴史の記録者であった。
(許侑琳)
〈記者らが記した歴史の瞬間①〉結束と闘いの証/創刊から強制停刊、復刊へ
〈記者らが記した歴史の瞬間②〉待ち望んだ再出発の道/歓喜の渦、帰国の港で