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“加害者の無反省に憤り”/日立鉱山フィールドワーク

2025年06月11日 09:00 歴史

朝鮮大学校の強制連行真相究明サークルに所属する学生ら22人が8日、「日立鉱山フィールドワーク」を行った。

日立鉱山の実態を語る張永祚さん(写真右)

学生たちはバスで3時間かけて最初の目的地である日鉱記念館に向かった。記念館には、日立鉱山を操業した現在のJX金属の前身である日本鉱業株式会社の社史が展示されている。記念館のパンフレットには「(日立鉱山は)閉山までの76年間、日本の近代化と経済発展に寄与してきた」と記されている。

案内役を務めた張永祚さん(79、茨城県朝鮮人慰霊塔管理委員会・事務局長)は展示室に入るや否や「ここには『輝かしい』歴史が展示されている」としながら、戦時の朝鮮人に対する強制連行・強制労働については、一切触れられていない実態に「憤りをおぼえる」と語気を強めた。学生たちは朝鮮人強制連行・労働の実態を語る張さんの言葉に耳をすました。

「1940年から45年にかけて、日立鉱山に約4千人の朝鮮人が連れてこられた」「安全対策が何もなされていない地下400~500㍍の現場では、猛暑が同胞たちを苦しめ、落盤による犠牲者も生まれた。そして地下に入ったかれらにはおにぎり二つしか持たされなかった」「重労働に耐えかねて逃亡する同胞たちが後を絶たなかった。ある同胞によると700人ほどが逃げたという」

記念館を後にした一行は県道36号線を徒歩で下り、本山寺を巡った。県道を下りながら張さんは学生たちに「数十分歩いて、辛くないか?当時の同胞たちがこの道を駆けて逃げたことを想像してみよう」と語りかけた。

本山寺の石段を上ると寺務所の前に小さな無縁塔がある。鉱山犠牲者の火葬場の待合所として用いられたこの寺では、当時の住職が身寄りのない朝鮮人の遺骨を引き取り、供養していた。無縁塔の前に立てかけられた卒塔婆には「朝鮮人殉難」「中国人殉難」と記されている。上に続く石段を上るとひらけた空間がある。かつて火葬場だったその空間で一行は黙とうを捧げた。

県道の中央線上にそびえる一本杉

無縁塔

卒塔婆には「朝鮮人」「中国人」と記され、日本の加害史を静かに伝えている

山肌沿いに続く小さな道の先には、日立鉱山事務所が建てた朝鮮人慰霊碑と中国人慰霊碑がある。張さんによると、中国紅十字の李徳全会長が54年にこの地を訪れる際に体裁を整えるために建立されたものだと言い、朝鮮人慰霊碑は「中国人慰霊碑建立のついでに建てられた」という。

日立鉱山跡地を巡った一行は、日立平和台霊園にある茨城県朝鮮人慰霊塔を訪れた。茨城県朝鮮人慰霊塔は、朝鮮創建30周年の78年に建立事業が始まり、79年に建立された。本山寺にあった朝鮮人の遺骨54柱が納骨堂内に収められている。

静かな霊園にピリの音色と学生たちが合唱する「アリラン」の歌声が流れた。

慰霊塔で「アリラン」を歌い、犠牲者を追悼した

その姿を見届けた張さんは「強制連行された同胞たちは故郷と家族への思いを込めてアリランを口ずさんだはずだ。怨恨を抱えて旅立った犠牲者たちが喜んでくれただろう」と涙ながらにこう言葉をつないだ。「未だに植民地支配の延長線上にある差別など問題が残っている。その課題を解決できるのは学生たちだ。胸を張って学び続けてほしい」(張さん)。

日立鉱山に連れてこられた約4千人の同胞たちは解放直後、およそ半数が帰郷したという。様々な事情で日本に残った約2千人は、いつの日か故郷に帰るために茨城県内の同胞と共に民族教育の歴史を開墾した。一行は茨城初中高の歴史資料室「想(뜻)」でその足跡を学び、フィールドワークの日程を終えた。

茨城初中高の歴史資料室を訪れた

金安奈さん(理工学部3年)は日鉱記念館の展示室を回った後、張さんの説明を受けて「近代化と経済発展の裏にある朝鮮人の強制連行、犠牲という事実が見えないようになっていることに、怒りが込み上げてきた」と感想を語った。

尹琴淑さん(文学歴史学部4年)は「先代たちが受けた被害の実態を詳しく知れて追体験するようだった」としながら「甘言で連れてこられた同胞が地下奥深くで危険な作業を強いられたこと、納骨堂にある遺骨が犠牲者たちのすべてではないということに胸が痛くなるばかりだった」と振り返った。

日立鉱山のフィールドワークを通して学生たちは、今も残る日本の植民地主義に対する問題意識をさらに深め、託された使命に応えていく決意を新たにした。

(高晟州)

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