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〈70年の自負、100年への自信②〉朝鮮大学校の新学舎と講堂・図書館・寄宿舎の建設

2025年01月28日 09:00 寄稿

朝鮮大学校は2026年に創立70周年を迎えます。当欄では、大学が歩んできた道のりや現在の教育内容、活躍している卒業生、70周年に向けた取り組みなどを多角的に紹介します。執筆は朝大の教員、関係者が担当します。(月1回掲載)

祖国の支援と自力更生の精神で

1956年4月、開校の鐘を鳴らした朝鮮大学校にとって喫緊の課題のひとつが、新しい学舎の建設であった。東京朝鮮中高級学校内の古い木造平屋建てを仮学舎として使用していた創立当初の教員の回想によると、風が吹けば教室が揺れ、梅雨どきには頻繁に浸水し学生らの靴も濡れてしまうほどだったようだ。ゆえに写真のひとつも残されていないのだという。

総聯は第2回中央委員会(1955年9月)における決議によって、5千万円を目標とする朝鮮大学校新学舎建設のための募金運動を開始した。

この呼びかけに応じて各地の同胞らが続々と募金に参加するなか、米国ハワイに居住する同胞からも8回にわたって855ドル(当時)の寄付金が寄せられたという。

しかし、教職員や活動家たちが、通常学務をこなしながら資金集めに奔走するも、巨額の建設資金を確保するのは困難をきわめ、建設の目途は立っていなかった。

1957年10月、祖国から第2次教育援助費と奨学金が送られてきたことを報じた朝鮮民報(朝鮮新報の前身)

そのような状況を憂いながらも、打開策をうちだせずにいた教職員や活動家たちに、1957年10月、特大の吉報が届いた。金日成主席の配慮により、同年4月に続いて第2次教育援助費と奨学金が送られてきたという感激的なニュースだ。1億円(当時)を超すその全額が、朝大の学舎建設費に充てられることになった。

朝鮮大学中央建設委員会は10月13日に決起集会をひらき、さっそく新学舎建設候補地の選定へと動き出した。当初、東京北西部の練馬地域が候補地に挙がったが、日本当局は住民らに土地を売ったり貸したりしないよう圧力をかけた。

苦心の末、建設委員会は東京西部郊外の小平に適地を得て、新学舎建設にとりかかった。しかし、ここでも反対勢力の妨害にあったため、新学舎は「共立産業株式会社鷹の台研究所」として建設が進められた。

かくして1959年6月13日、総聯第5回大会を終えた参加者らが見守るなか、1万9千坪の敷地に1300坪の建物、50余りの教室などをそなえた新学舎がついに日の目をみることとなった。雄壮かつ均衡美にあふれる第1研究棟は、1962年度の「日本建築年鑑賞」に輝いた。

新学舎の建設は、金日成主席の主体的海外同胞教育思想と導きの賜物であり、1958年から4年制に改編された朝鮮大学校の発展をささえる土台となった。

ペンをシャベルに持ち替え

その後、朝鮮大学校の教職員と学生たちは、1960年代の社会主義建設を千里馬の速度で推し進める祖国の人民らの姿に強く鼓舞され、「自力更生」を旗印に一丸となって講堂と図書館、寄宿舎の建設に邁進した。

昼間は建築現場でセメントや鉄筋を運び、講義や実験は夜間にもれなく補った。ペンをシャベルに持ち替え、大量の土砂を手押し車に満載してひたすら往復する。皮のむけた手にまたペンを握る。押し寄せる睡魔ともたたかう。

教職員と学生たちは自力で講堂と図書館、寄宿舎を建設した(1963年頃)

もちろん簡単ではなかったし、肉体的な疲労や負担は大きかった。しかしそこには団結の力と青春の気迫、創造の喜びがあふれ、歌と笑顔が満ちていた。

この自力での建設過程こそが、他のなにものにもかえがたい人間形成の場となり、朝鮮大学校と学生たちを大きく成長させる重要な契機となったという。

1964年5月28日、講堂および図書館の落成式が執り行われた。それまでの6カ月間、9万4千時間余りの労働で延べ1万1700人の学生たちが汗を流し、知恵と情熱、愛国の志をささげた。

落成式では、建設に貢献した同胞や活動家に対する国家受勲の政令が発表され、また朝青委員会などに表彰状と副賞が贈られた。

周知のように朝鮮大学校は、創立70周年を来年にひかえている。昨年末に開かれた朝鮮労働党中央委員会総会拡大会議では、国家の教育事業における土台を強化する問題が独立した議定としてとりあげられ、決定として採択された。

教育革命によって人材育成と科学技術の発展を先行させ、その力をもって隆盛繁栄する社会主義強国を樹立しようとする祖国と足並みをそろえ、唯一無二の海外同胞大学をいっそう発展させるため、微力ながら本分を果たしていきたい。

(曺宇浩・朝鮮大学校教育学部教授)

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