〈阪神淡路大震災30年〉伝えた声、共にした悲しみ/朝鮮新報記者が目の当たりにした現場
2025年01月18日 08:30 在日同胞1995年1月17日早朝、淡路島北部を震源とするM7・3の激震が発生。内陸で発生した直下型地震は死者6434人、行方不明者3人、負傷者43792人という甚大な被害をもたらした。犠牲者の中には、同胞125人も含まれている。朝鮮新報社は地震発生直後から記者を派遣し、同胞の被害状況を連日報道した。当時、記者であった李賢奎さん(55、埼玉初中教育会副会長)に当時の話を伺った。
地震発生当時、李さんは取材で静岡県熱海に滞在していた。すぐさま本社に車で引き返す途中に駅前を通ると、号外が配られていた。
本社に着いた李さんはそこで、崔秀光さん(朝鮮大学校・外国語学部2年)が犠牲になったという悲報に接した社員の頬に涙が伝う光景を目にした。それは今でも鮮明に覚えているという。
第1陣の取材班は17日夜、朝鮮新報社の大阪支社を発ち、18日朝に総聯兵庫県本部に着いた。
李さんは1陣に続いて2月頃に現地に派遣された。その時、李さんは記者2年目であった。
阪神地域を襲った地震により、鉄道は壊滅状態に。大阪からの振替バスで向かわねばならなかったが、危険な道路を迂回する関係で、通常の2倍以上の時間を要した。李さんは大阪支社を拠点にして毎日取材を行った。
当時、朝鮮学校や総聯支部会館は被災同胞の避難所として使われた。李さんは「東神戸初中(現在の神戸初中)に着くと、同胞たちは『記者トンムが来た』と温かく迎えてくれた。同胞たちの避難所には各地の同胞から送られてきた支援物資や激励の手紙が山のようにあった」とし、「被災した同胞たちはもちろん大変だった。それでも初めは、そのように見えないくらい楽天的に避難生活を送っていた」と振り返る。
当時の本紙記事によると、地震発生2日後の19日時点で東神戸初中には30余人の同胞たちが身を寄せ合っていた。交通アクセスは遮断されていたが、険しい道を越えてきた同胞救援隊により、支援物資が続々と届けられた。また、それは近隣の住民にも配られたという。
記者たちは、金正日総書記の慰問金100万ドルが被災同胞に手渡される現場にも入った。祖国の配慮に勇気づけられた同胞たちを取材した李さんは、その時に同行した写真記者が総聯須磨垂水支部・大池分会で撮った写真が印象深いという。大池分会は激震と火災により、同胞100%が被災。その内、90%の家屋が全壊、全焼した。
しかし写真には、がれきの山となった分会事務所跡を背景に「私たちの分会は生きている!すべての力を分会の復旧に!」という横断幕を掲げた同胞たちが映っている。大池分会の崔敏夫分会長は、崔秀光さんの父である。
李さんは「地域同胞たちは、常に同胞たちを心配する崔分会長の姿を見て、より信頼して分会のもとに集まった」とし、「震災の最中、支部や分会、学校が名実ともに生活の拠点になり、助け合いの情が通った。分会では、靴工場を運営していた多くの同胞が、再開のための情報交換を活発に行っていた」と強調する。そして「総書記が送ってくださった見舞い電と慰問金は同胞たちの力の源になった。同胞たちは、お金の問題というより、被災した自分たちに祖国の手が差し伸べられたということに、感激と感謝の思いで胸いっぱいだった」と回想する。
記者たちは、95年3月4日、しめやかに執り行われた合同追悼式で、被災同胞たちと悲しみを共にした。母を亡くした同級生に式場で会った李さんは「あまりにも胸が痛くてかけることばを失ってしまった」と話す。
30年前、被災地を歩いた日々を振り返りながら李さんは「組織と学校が大切だ」と何度も強調した。
「震災1年後に行われた東神戸初中と伊丹初級の起工式を取材した。両校は震災から2年という短い期間で新校舎が建てられた。同胞たちは自分の家、工場が被害を受けてもなお、学校復旧のため心血を注いだ。4・24教育闘争の伝統をもつ地で、学校を中心に発揮される組織の力、同胞社会の力を感じた」(李さん)
当時の体験は今日、李さんの取り組みにも反映されている。李さんは「現在、埼玉教育会の副会長を担っているが、日本で災害が起こるたびに学校の災害備蓄品について議論している。同胞たちや近隣の住民はもちろんだが、私たちの取り組みの出発点には同胞社会の未来である子どもたちのためにという心持ちがある」と話した。
(高晟州)