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「近代化」で隠す軍需生産の拠点/富山・黒三ダムと朝鮮人労働者

2025年01月09日 10:20 歴史

戦争遂行のための電源開発/東京・新宿で講演

富山・黒部川電源開発と朝鮮人労働者について講演があった。

企画展「『強制連行』『強制労働』の否定に抗う~各地の追悼・継承の場をたずねて~」(24年7月4日~25年1月26日)を開催中の高麗博物館(東京都新宿区)で昨年12月14日、富山県を中心に活動する堀江節子さん(76、フリーライター)のライブトークが行われた。

「黒部川電源開発と朝鮮人労働者」と題して報告した堀江さんは、1930年代、軍需物資生産のために黒部川上流で進められた電源開発と、それに携わった朝鮮人労働者の実態について、当時の新聞報道や体験者の証言といった資料を用いて解説した。

北アルプスに源流がある黒部川は、その急峻な地形と豊富な水量から、1920年代から60年代にかけて水力発電のための施設建設が進んだ。とりわけ黒部川第三発電所(通称、黒三)は41年まで、強制動員された多くの朝鮮人が従事する現場であった。堀江さんは講演で、「富山の近代化は、ツルハシとスコップとダイナマイトを手に、最底辺で働いた朝鮮人労働者の存在なしに考えられない」と指摘。「かれらは奴隷労働を強いられながらも、団結とストライキを武器に、電力会社や元請けの組を相手に労働条件について交渉し、自らの地位を築いていった」と語った。

かつて発電所やダム建設のために作られた黒部峡谷の水平歩道(黒部・宇奈月温泉観光局HPより引用)

企画展の関連イベントとして催されたこの日のライブトークは、オンラインでも配信された。一方、同企画展は今年に朝鮮解放から80年を迎えるにあたり、日本の植民地支配の歴史と改めて向き合い、その本質を見つめることを目的に企画された。

黒部川水系の発電施設群は2017年12月、発電施設の大規模化を象徴する「自然と一体化した電源開発の究極」だとして「日本の20世紀遺産20選」に選出された。これに象徴されるように、国や地元自治体は近年、黒部一帯のダムや発電所を「日本の近代化を象徴」する施設だとアピールするなど、社会的にも「観光地」と認識されて久しい地ではないだろうか。

昨年12月14日、高麗博物館(東京都新宿区)でのライブトークに登壇したフリーライターの堀江節子さん(76)は、そうした状況を憂いながら、「黒三(黒部川第三発電所の通称)は知られていても、その建設に朝鮮人労働者が関わったのを知る人は、地元・富山にもほとんどいない」と口火を切った。

黒部川に求めた電力

富山県では、1910年代後半から40年代はじめにかけて、発電工事や鉄道・道路工事など多くの現場に朝鮮人が従事していた。例えば1918年、地元紙が「立山砂防工事を担った百数十人の朝鮮人のうち、十数人が虐待に耐えかねて脱走」(北陸タイムス18年8月7日付)したことを、労働者らの実名と共に報じており、とりわけ黒部川流域のダム工事と関連しては、トロッコの下敷き(同27年10月20日付)やダイナマイト事故(同38年8月29日付)などで朝鮮人労働者が相次いで犠牲になった事実が各紙の新聞報道で示されている。

発言する堀江節子さん

「労務動員関係朝鮮人移住状況調」「新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」などの資料をもとに、1940年から45年までの5年間だけでも約8千人の朝鮮人が動員されたとみられる富山。そもそもなぜ、この地で発電所およびダム建設が進んだのか。

それは当時、日本がアジア太平洋地域で拡大させていった侵略戦争の流れと連動していた。堀江さんによれば、富山県の黒部川上流にある黒部峡谷は、「かつては足を踏み入れることのできない場所」だった。そうした中、東洋アルミナム株式会社を設立した高峰譲吉は、当時日本が輸入に頼っていたアルミニウムの国内精錬に目を付け、必要な大量の電力を黒部川に求めるように。これがきっかけとなり、日本電力(現・関西電力)を事業主体に、1920年代から水力発電所とダムの建設が急ピッチで進められた。その後、27年には柳河原発電所が完成し、36年に黒部川第二発電所とそのダム(木屋平ダム)が完成する。さらにその4年後、黒部川第三発電所とダム(40年)が完成した。

堀江さんは、黒部川電源開発にまつわる一連の流れについて「国策として進められた富山の発電所・ダム建設だが、黒三ダムは太平洋戦争下の主力電源を担った」と言及。この日の報告では、黒三ダム建設時にフォーカスした朝鮮人労働者の実態を説いた。

朝鮮人が居た事実

建設に多くの朝鮮人が携わった仙人谷ダム(富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ」より引用)

立山連峰の頂上から黒部峡谷の谷底までは約2千㍍で、その間に現在、通称「くろよん」と呼ばれる黒部川第四発電所・ダムがある。そして、同ダム下流で黒三発電所およびダム建設が進められた。

日本は1931年の満州事変後、中国大陸へと侵略を拡大する「十五年戦争」に突入。堀江さんによると、以来、「関西では電力が圧倒的に不足し、家庭用電気の使用制限がかかるような状況」になった。そうした中、当時開始された黒三発電所・ダム建設は、関西の軍需産業に必要な電力供給のための国策事業に指定される。日中戦争が本格化する36年から突貫工事によって進められた同建設は「早期完成が至上命題だった」一方で、工事は困難を極めたと堀江さんは指摘する。

「人や資材を運ぶ道はなく、あるのはV字型の切り立った崖の中腹に人ひとりがやっと歩けるだけの幅しかない水平歩道のみ」。そのため労働者たちは、「ダムの建設現場に電気を送るため、100㍍ある高圧線を60人で担ぎながら歩調をそろえて運んだり、資材や機械を分解して運搬した」という。

堀江さんによると、それでは工事が進まないので、労働者らは、谷が雪に埋もれる冬期にも資材運搬用の隧道工事を強行。結果、「12月~5月までの半年間、常にホウ雪崩の危機にさらされる」峡谷の地で、労働者らの飯場を度々雪崩が直撃した。また、160度以上もある岩盤に穴を開け、ダイナマイトを装填して爆発させ、砕いた岩を運び出すといった過酷な労働では多くの死傷者が出た。黒三建設は最終的に300人以上の死者を出す難工事で、携わる労働者の3分の1が朝鮮人だった(38年の志合谷雪崩では、死者86人のうち39人が朝鮮人で、40年1月の阿曾原雪崩では、死者28人のうち17人が朝鮮人だった)。

堀江節子著『黒三ダムと朝鮮人労働者 高熱隧道の向こうへ』

黒三ダム建設を記録した小説『高熱隧道』(吉村昭著)には、「坑内には熱い湯気が充満し、一般のものはその熱さのために、坑道の奥にまで達することは到底できない」「人間が作業する環境とは程遠い特殊な世界が形作られていた」などの記述があるとおり、隧道のトンネルは異常に熱く、ダイナマイトが度々自然発火して爆発。これにより多くの人びとが命を落としたが、同小説には、朝鮮人労働者の存在は記されず、よって「朝鮮人労働者不在は歴史の事実として定着している」と堀江さんは警鐘を鳴らした。

『富山県警察史』によると45年8月時点で富山には約 2万5千人の朝鮮人が在住しており、日本の敗戦後、そのほとんどが朝鮮へと帰国した。

子どもたちのために

治安問題として対処された朝鮮人への社会的な認識がわかる新聞報道

講演では、「県外へ流れくる朝鮮人労働者」「危険分子と風紀取り締まり」「一定期間、巡査を駐在させるべき」など、黒部でのダム・発電所建設当時、朝鮮人労働者が治安取り締まり対策の対象であったことを示す記事も多数紹介された。また、そうした弾圧に対して抵抗する朝鮮人の労働運動や、闘争の実態に言及した同氏は、「電源開発という国策遂行のために犠牲となった朝鮮人の存在を、歴史の事実として明らかにしていくことが大切」だと指摘。講演の最後、参加者たちへの呼びかけと共にこう締めくくった。

「過去も、現在も、私たちが解決しないまま持ち越してきた問題がある。人命も犠牲もいとわず国策として進められるエネルギー政策と国家権力、未だに植民地宗主のような態度をとる一方で、個人の尊厳よりも国益を重視する日本政府、そして社会に残る構造的差別。今年、被団協がノーベル平和賞を受賞したが、私たち日本人は朝鮮半島を植民地にし、多数の朝鮮人が日本人と同じく被爆したことも忘れてはならない。日本人はアジア太平洋戦争で数えきれない惨い加害を行った。この事実を子どもたちに伝えていかなくてはならないし、そんな未来をつくっていきましょうと強く訴えたい」

(韓賢珠)

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