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〈時事エッセー・沈黙の声 52〉袴田巖さん再審無罪判決、人権確立を/浅野健一

2024年10月18日 11:05 寄稿

事件から58年、自白・証拠の捏造を認定

1966年6月、静岡県清水市(現静岡市清水区)で起きた味噌製造会社の専務一家4人殺害事件で、同年8月に逮捕され80年11月に最高裁で死刑が確定した袴田巖さん(88)の再審裁判で、静岡地裁(国井恒志裁判長)は9月26日、袴田さんに再審無罪判決を言い渡し、10月9日に検察官が上訴権を放棄したことにより、無罪判決が確定した。

14日午後、静岡市葵区の労政会館で、袴田さんの完全無罪確定を祝う会が開かれた。ホールは満席で、最初に袴田さんを支えてきた姉の袴田ひで子さん(91)が入場。ひで子さんにお祝いの言葉をかけると、「長い間支援してくれ、ありがとうございました」と言ってくれた。

ベルトを手にVサイン

会では袴田さんを日本プロボクシング協会のリングアナウンサーが「チャンピオンの入場です。赤コーナー、WBC世界フェザー級名誉チャンピオン、はかまだー、いわおー」と紹介。袴田さんは元プロボクサーで、日本フェザー級6位の記録も持つ。映画「ロッキー」のテーマソングが流れる中、車椅子に乗った袴田さんは、弁護団、支援者ら約300人の大きな拍手に迎えられ登壇した。無罪確定後、袴田さんが公の場で発言するのは初めて。

袴田さんは死刑の確定後、長期の拘束で心神喪失状態とされ、出廷を免除されたが、この日は、マイクを握り、「長い闘いがございました。私もやっと完全な無罪が実りまして、闘いに出てまいりました、念願です」「いつまで続く戦いか」などとしっかりした口調であいさつした。衆院選告示を意識したのか不明だが、「新しい政治を作ろう。社会問題について事実を表面に出す」などとも語った。

袴田巌さんの完全無罪確定を祝う会で、姉のひで子さんと共に(筆者撮影)

ひで子さんは「『巌にはそれとなく無罪になって勝ったんだよ』と言っているけど、まだ半信半疑でいるようなところがある。こうして皆さんに盛大にお祝いしていただくことで巌には実感として湧くと思います」と支援者に感謝した。

日本プロボクシング協会のメンバーがWBCの名誉チャンピオンベルトを袴田さんの肩にかけて、祝福した。「いわお」コールが起きると、元日本フェザー級6位の袴田さんはベルトを手にVサインをし、手をあげて応えた。

巖さんは約30分で会場を後にする時、私と二人で写真を撮ってくれた。巌さんと会ったのは14年末以降、3回目だったが、私のことを覚えてくれていた。

巖さんの付き添いは、浜松で袴田さんの散歩などの世話をしている「袴田さん支援クラブ」代表の猪野待子さんらだ。猪野さんら地元の支援者を最も信頼している。

死刑囚だった袴田さんは公職選挙法に基づきこれまで選挙権がなかったが、無罪が確定したことで、16日、衆院選(27日)の入場券が届いた。袴田さんは14年の釈放後、「選挙権がほしい」と私の取材に語っていた。

人質司法を浮き彫りに

日本での死刑囚の再審無罪は5回目で、1989年に無罪が言い渡された島田事件以来。袴田事件は私が共同通信記者時代に、人権と犯罪報道について考える契機になった事件の一つで、80年代に救援会に招かれ何度か講演した。08年に専修大学で開かれたシンポジウムでひで子さんと共にパネリストになり、その後、人権と報道・連絡会やたんぽぽ舎の講座で講演してもらった。

私が袴田さんと初めて会ったのは、袴田さん姉弟が14年12月、東京・お茶の水の連合会館で26回多田謡子反権力人権賞を受賞した時だった。その後、再審布川事件で無罪になった桜井昌司氏(23年8月死亡)と一緒に浜松の自宅を訪ねた。

袴田さんは47年7カ月間も獄中にいたため、拘禁性の精神疾患に罹ったとされている。この事件で、静岡地裁が14年に再審開始を決定した根拠となるDNA型鑑定を行った筑波大の本田克也名誉教授は私の取材に「拘禁性の疾患とは思わない。死の恐怖に曝された非常心を脱却して、生死を超越した不動心のレベルにまで50年かけて到達することにより、言うなれば悟得に相当する精神状態に至った高僧と化した奇跡だ」と強調した。

袴田さんは自身の長い闘いで、人間の尊厳を回復したと思う。二度と取り戻せない歳月が過ぎたが、袴田さんは生き抜き、最後に勝った。58年後に無罪になった死刑囚という人類史上例のない体験をした袴田さんに、現代精神医学は診断を出せるのだろうか。

私は袴田巌さんを救う会編『主よ、いつまでですか 無実の死刑囚・袴田巌・獄中書簡』(新教出版社、1992年)を読み返した。

「おかあさん、僕の憎い奴は、僕を正常ではない状態にして、犯人につくりあげようとした奴です。神さま。僕は犯人ではありません」「世間の人々の耳に届くことを、ただひたすらに祈って僕は叫ぶ」(1967年)

袴田さんは6人きょうだいの末っ子。獄中からの手紙には、自身が逮捕されたことで苦境にあった母への思いが綴られた。袴田さんの無実を信じた母親は一審の死刑判決の2カ月後の68年11月に亡くなった。ひで子さんらは1年後に母親の死を伝えた。ひで子さんは「親孝行のつもりで巖を支えてきた」と振り返る。

「私も冤罪ながら死刑囚。全身にしみわたって来る悲しみにたえつついきなければならない」「しかし私は勝つのだ」(73年)

その後、死刑が確定した後、「悪魔は電波攻撃により(私を)傷つけようとした」(87年)などの記述が始まり、「拘禁症」とされた。95年からひで子さんらへの便りがなくなり、ひで子さんの面会も拒んだ。99年2月、3年7カ月ぶりに面会できたが1分だけの対話だった。2003年に面会できた時は、「あんたの顔は知らない」と言ったという。それでも、ひで子さんは「巖に会えてよかった」と応じた。

ひで子さんは袴田さんの救出のために、事務員として働き蓄財し、弟の生還に備え、3階建てのビルを建て、3階に住居を構えた。

無罪確定で、中日新聞・東京新聞、毎日新聞、朝日新聞は、捜査段階での犯人視報道に関し「袴田さんにお詫びする」と告知記事を掲載した。しかし、なぜ、実名・犯人視記事で司法の冤罪づくりに荷担したかの検証をしていない。

ひで子さんは「事件当時は、犯罪者の家族だからと責めるような論調ばかりだった。巌が無実を訴えていても私たちのところに取材はこなかった。14年の再審開始後に取材が急増、好意的な姿勢になった」と話している。事件を担当した裁判官も、マスコミ報道がプレッシャーになったと振り返っている。

袴田さんの無罪は、日本の人質司法の問題も浮き彫りにした。1974年に兵庫県で起きた甲山事件の冤罪被害者、山田悦子氏は「ドイツはナチズムの責任を国民全体で問い、憲法に世界中で人間の尊厳を守ると誓約した。一方、日本国と日本国民は1905年以降の朝鮮侵略・強制占領などアジア太平洋戦争の加害責任を取っていない。日本に冤罪が多いのは、人間の尊厳を守る人権が確立されていないからだ」と指摘している。袴田さん無罪を機に、日本人の人権意識が問われている。

プロフィール

1948年香川県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。1972~94年、共同通信記者。94年~2014年、同志社大学大学院社会学研究科教授。2020年4月、下咽頭がんが再発し咽頭・喉頭・頭頸部食道を全摘。無声ジャーナリストとして様々な媒体に寄稿している。

(本連載は、月に1回、日本の政治・社会問題や朝鮮半島を取り巻くさまざまなイシューをジャーナリストの視点で批評するものです。金淑美記者が担当します。)

(朝鮮新報)

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