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〈在日発、地球行・第4弾 2〉まだ見ぬ故郷を描いて/ヨルダン

2024年10月15日 09:00 在日発、地球行

過去の連載記事はこちらから▶︎ 在日発、地球行・▶︎〈第1弾〉▶︎〈第2弾〉▶︎〈第3弾〉

正式名称:ヨルダン・ハシェミット王国。首都:アンマン。人口:約1134万人。面積:約8.9万㎢(朝鮮の約0.7倍)。言語:アラビア語、英語。民族:大半がアラブ人。渡航方法:朝鮮籍の筆者は入国が2回可能なダブルのe-Visa60JD(約1万2千円、1JD=約200円)で取得。中継地であるアラブ首長国連邦のザイード国際空港では、トランジットエリアでの滞在が8時間以内のためトランジットビザは必要無し(2024年8月時点)。

アイデンティティーと抵抗

午前10時過ぎ、アンマンのホステルに到着した。しかし、スタッフは外出中。ひとまず受付スペースのソファーに腰を下ろした。

受付のデスクの上には、隣国パレスチナの国旗が飾られている。不思議に思う人がいるかもしれないが、 そもそもヨルダンには多くのパレスチナ系住民が住んでいる。その数は、約1100万人いる国内人口の7割。背景には、イスラエルの植民地主義的な占領政策がある。

パレスチナの人々はイスラエル建国(1948年)に伴う民族浄化により故郷を追われて以降、故郷への帰還権を求めてデモ活動などを繰り広げてきた

歴史をさかのぼること76年前。1948年の建国後にイスラエルが行った民族浄化により、70万人以上のパレスチナ人が居住地を追われ、ヨルダン川西岸地区やガザ地区、近隣諸国への避難を余儀なくされた。

さらに、67年の第3次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西岸とガザを不法占領したことで、100万人以上のパレスチナ難民が発生。その後も、イスラエルによる無差別な暴力行為や住居破壊、入植活動などの影響で、ヨルダンを目指すパレスチナ難民が後を絶たなかった。ヨルダンは48年まで人口が約40万人だったものの、同年に約40万人、67年に約50万人のパレスチナ人が逃れてきたことで、結果的に世界最大のパレスチナ難民受け入れ国となった。

時計の針を今日に戻そう。受付スペースでくつろいでいると、入り口から女性が姿を現した。宿の共同オーナーを務めるドゥア(30代後半)だった。

かのじょは筆者のチェックイン手続きを済ますなり、遅めの朝食はどう?とキッチンへ。オリーブオイルと水切りヨーグルト、中東の伝統的なミックススパイス「ザータル」を塗った特製トーストを準備してくれた。さまざまなスパイスの風味が絡み合ったクセになる美味さで、トースト3枚をぺろりと完食。空腹を満たしたところで、ドゥアとの雑談タイムに入った。

オリーブオイルと水切りヨーグルト、中東の伝統的なミックススパイス「ザータル」をつけていただく特製トースト(左)

受付の国旗から推測していた通り、かのじょのルーツはパレスチナにあった。生まれ育ったのはヨルダンだが、パレスチナ人としてのアイデンティティーを強く持っているという。パレスチナ出身の祖父母や父母から故郷の話を常々耳にしてきたからだ、とかのじょは話す。

「とりわけ母の話を通じて、いまだ訪れたことのない、故郷の美しい風景を頭に描いてきた。パレスチナで住んでいた村がどれだけ豊かな自然に囲まれていたか、村の人々と共にどれほど幸せな時間を過ごしていたか。母は幼少期の記憶を今でも昨日のことのように語っている。一度でいいから、家族が生まれ育った地に足を運んでみたい」

無力感の中で

ドゥアはパレスチナの歌や踊り、料理も母から教わったという。ちなみにホステルでは、宿泊客の要望に応じてパレスチナの伝統的な炊き込みご飯「マクルーバ」を振る舞っているのだとか。故郷の風景、誇りとする文化について話すかのじょの表情は、とても朗らかだった。しかし、パレスチナが置かれた状況に話が及ぶと、表情から明るさが消えた。

イスラエルの非人道的な占領政策により、家族が異郷で苦しい生活を強いられたこと、ヨルダン川西岸に暮らす親戚が死と隣り合わせにあること、友人の家族や親戚がガザで一人、また一人と命を奪われていること。身内や知人の辛い体験に触れたドゥアは、怒りの感情を隠そうとしなかった。

アンマンでは集団礼拝が行われる金曜日、ダウンタウンのモスクやイスラエル大使館周辺で抗議行動が行われている(写真は友人提供)

ヨルダンのパレスチナ系住民たちも憤りを抑えられずにいるという。ドゥアいわく、パレスチナ系住民たちは毎週、アンマン中心部のモスクやイスラエル大使館の前でイスラエルのジェノサイドに反対する抗議活動を行っている。また、イスラエルの暴虐を世界に知らせるため、ガザやヨルダン川西岸から発信された写真、映像をSNSで積極的に拡散している。

ドゥア自身、ガザの危機的状況に「無力感」を感じながらも、「何かできることはないか」と模索してきた。受付に掲げたパレスチナ国旗は、同胞たちへの連帯を示そうとするアクションの一つだった。

土産屋で売られていたバッジ。ヨルダンではパレスチナへの連帯を示すさまざまなアクションを見た

時計の針が正午を回った。そろそろ散策に出るとしよう。とはいえ、アンマンの名所には7年前のヨルダン訪問時にほとんど足を運んだ。

他に訪ねるべき場所は。筆者との会話から関心事を知ったのか、ドゥアはパレスチナ難民キャンプへの訪問を勧めてくれた。難民キャンプまではそう遠くない。こうして次の目的地が決まった。

(つづく、李永徳)

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