公式アカウント

〈歴史の「語り部」を探して〉通信使の旅路を辿る/関西編

2024年08月01日 09:06 歴史

昨年1月、本連載の滋賀編では、朝鮮通信使の息吹が残る近江八幡を紹介した。通信使といえば、対馬を経て福岡や下関、大阪、京都など日本の各地にその足跡を残している。今回は通信使に関する「語り部」たちを紹介するために兵庫、大阪、京都の3地域を訪ねた。

海駅館にある朝鮮通信使コーナー

港町で継がれる歴史

山陽電鉄の車窓からは、新緑の上に寝そべる瀬戸内海を一望できた。この日の最高気温は25度。車内の高校生らはハンディファンを片手に談笑しているが、ドアが開くたびに舞い込む皐月の空気が、どこか気持ちいい。5月23日、通信使の船団が11回寄港した兵庫・室津へと向かった。

姫路から西へ。網干駅に降りると、この日、旅程を共にする宋成一さん(神戸朝高・歴史講師)が迎えてくれた。宋さんが運転する車に乗り込み、室津港を目指した。揖保川(いぼがわ)を越え、さらに西へと走る中、宋さんは前方にそびえる嫦娥山(じょうがやま)を眺めながら「通信使を迎える室津では当時、飲料水が不足していた。そのために小舟100余艇を使って水を運んだ」と言う。そして、財政難にもかかわらず莫大な資金を投じて迎える「藩を挙げてのメンツをかけた歓待だった」と話した。資料によると、徳川幕府が設定した1回の歓待費予算は100万両といわれる。これは同時期に「費用お構いなし」で行われた日光東照宮の大改修「寛永の大造替」にかかった額と同額である。

車は瀬戸内海に面した嫦娥山(じょうがやま)の裾を沿うように進んでいく。すると前方に、岬に広がる室津の港町が見えてきた。室津湾は三方を山々と岬に囲まれた自然の良港。「この泊まり風を防ぐこと室のごとし」(「播磨国風土記」)という所以から「室津」と呼ばれ、通信使のみならず参勤交代で江戸に向かう大名たちも好んだ一帯だった。港の一角に車を停めて、室津海駅館へと歩みを進めた。

饗応料理の再現品

豪商「嶋屋」の家屋を利用した遺構・室津海駅館には朝鮮通信使の展示コーナーがある。奥に入ると通信使入港の様子を描いた「朝鮮通信使室津湊卸船備図屏風」(複製)の展示や通信使の行列を模した人形たち、当時振る舞われた饗応料理の再現品も。「町おこしの一環として朝鮮通信使の歴史を扱っている」と宋さんが説明するように、それらを観ながら、朝鮮通信使の歴史を総合的に網羅している印象を受けた。

その後、筆者たちは、岬の方へと向かった。

道中にみる街の至る所には、一行が宿泊した施設の跡が残っていた。当時の宿泊施設は旅籠(はたご)と呼ばれ、格式の高い旅籠は本陣と呼ばれていたそうだ。その本陣や、藩主の宿泊施設だった御茶屋には、通信使の中の正使、副使、従事官という「お偉いさん」が宿泊し、それ以外は寺院などで船旅の疲れを癒したとされる。

岬の先端に行くと、漁港を一望できた。昔ながらの蔵造りの街並みを背景に、漁船たちが静かに停まっている。歴史歪曲の荒波の中でも確かに保存された朝・日友好の足跡。のどかな港町を後にし、駅で宋さんと別れ、次の目的地である大阪・九条を目指した。

御茶屋跡の碑

通信使の足跡を追って

室津を発った通信使は海路で兵庫を経て、大阪へと向かった。大阪に着いた一行は、淀川を伝って京都へ行くために、川用の船「川御座船」に乗り換えた。その乗り換えの地が大阪・九条だ。大阪市西区の松島公園には今も「九条島と朝鮮通信使の碑」が建っている。碑文には、この地で通信使と学者たちの交流があったことや、水夫たちが竹林寺で旅情を慰めたことなどが刻まれていた。

碑からすぐの場所に竹林寺はあった。境内に入り、本堂をぐるりと回って裏に進むと「金漢重墓」と刻まれた墓碑が佇んでいた。金漢重は、通信使の一行として日本を訪れ、江戸に向かう途中、大阪の地で病死した朝鮮人だ。はるか昔の同胞の冥福を祈り、向かった次の場所は京都・淀だ。

淀川を遡上した通信使が、上陸した地が京都・淀である。京阪電鉄の淀駅から西へ3分ほどの場所に「唐人雁木旧趾」と書かれた碑がある。「唐人」は朝鮮通信使を指し、「雁木」とは、上陸の際に用いられた階段を指す。この原碑が伏見区の淀城公園内にあるとの情報を元に公園に移動した。しかし、あるはずの碑はなかった。情報をもう一度確かめるも、そこには別の表札があるのみだった。草木生い茂る園内を探すこと数分。隣接する神社の前に、石碑が倒されて置かれているのを見つけた。計4つの石碑は、参照していた画像と碑の数、大きさが一致した。

観光協会に問い合わせてみると、「子どもの安全のために撤去してほしい」との住民の声を受け、隣接する神社が、公園を管理する団体に申し出て、管理しているという。粗末な管理の実態から、歴史を軽視する態度が透けて見えた。

横倒しで放置されていた石碑たち

原碑があった場所には掲示板が立っていた

現役の「語り部」

淀駅から京阪本線、近鉄京都線を乗り継ぎ京都駅へ。京都中心部には通信使ゆかりの地が多いが、今回は本圀寺(ほんこくじ)跡と三条大橋を巡った。通信使は本圀寺に計7回も宿泊している。

修学旅行客と観光客でごった返している駅前から西本願寺の通りへと進み、堀川五条の方へ歩くこと20分。マンションの一角に巨大な碑が鎮座していた。本圀寺跡の碑だ。本圀寺は1971年に山科区へ移転。隣にある立札の文には「代々の京都所司代が一行に挨拶に来て、饗宴を催すこととなっていた」と書かれていた。また、朝鮮や中国の学問に憧れ、通信使と交流を深めた徳川光圀の帰依を受けて「本圀寺」と改めた旨も記されていた。

碑は、マンション前に鎮座していた

最後の目的地である三条大橋へと向かおうとしたところ、ふと、こんな考えが浮かんだ。徒歩で江戸まで向かった通信使の足跡を追うのに、公共交通機関に甘んじていいのだろうか? 地図を開き、基盤の目のような街並みを眺め、何故か自信が湧いてきた。

そうして歩みを進めること45分。無事、三条大橋に到着した。

三条大橋(下流側から撮影)

下流側の石柱

三条大橋は、東海道の西の起点。通信使一行は、ここから江戸へと旅立っていったのだった。当時の面影は今も残っている。鴨川下流側の石柱は建設当時のもの。朝・日友好を支えたその「語り部」の上を、今日も観光客や修学旅行生などの人々、車が絶えず行き交っている。その群衆の中に、この「語り部」の存在を知っている人は、どれほどいるのだろうか。友好の歴史も負の歴史も忘れ去った先に未来はあるのだろうか。そんな思いにふけりながら、旅程を締めくくった。

(高晟州)

Facebook にシェア
LINEで送る

関連記事