〈ものがたりの中の女性たち80〉「蝶になり犯人の冠に止まりましょう」―阿娘
2024年06月17日 07:46 寄稿あらすじ
密陽府使のひとり娘阿娘(アラン)は早くに母を亡くし、乳母に育てられる。美しく聡明に育った彼女は、近隣の名家から縁談が引きも切らない。ある日、一方的に阿娘を見初めた密陽の下級官吏が、彼女の乳母に大金を握らせ嶺南樓におびき出す。乳母は月見を口実に阿娘を連れ出し、自分はその場を離れ彼女をひとりにする。物陰から突然目の前に現れた男に驚いた阿娘は悲鳴を上げるが、男は常日頃自分がどんなに彼女を想っていたかを言い募り、怯える阿娘に迫る。叫び続ける彼女に男は襲い掛かるが、阿娘の抵抗はすさまじい。全身で拒絶する彼女に業を煮やした男は、隠し持っていた刃物で阿娘を何度も刺すと、その死体を竹林に遺棄し逃亡する。
父である密陽府使は、突然行方不明になった娘を探すが見つからず、密陽府使を退職し都に帰ってしまう。そのとき以来、密陽の新官の府使は、着任早々次々と心臓麻痺で死んでしまい、府使になろうという者が誰もいなくなってしまう。
廃村の声が出る中、事を重く見た朝廷は、身分の高低に関わらず全国に希望者を募ることにする。すると、豪胆な性格の筆職人の青年が名乗りをあげる。
青年が密陽に到着したその夜、本を読んでいた彼の前に突然全身血だらけの女が現れる。阿娘の幽霊だった。彼女は自身の殺害の顛末と遺体が遺棄された場所、犯人の名前を新任府使に告げ、どうか犯人を捕らえてほしいと切々と訴える。府使が赴任するたび同じことを訴えようと姿を現したが、皆驚いて死んでしまったということも。翌日、府使が下手人と乳母を捕え、その後処刑して以来、密陽の府使が突然死んでしまうことはなくなり、阿娘の幽霊が現れることもなくなる。
第八十話 阿娘説話
「阿娘説話」は、殺人事件の犠牲者阿娘(アラン)の幽霊が、犯人を明かし真相を究明する過程を描いた説話である。おもに慶尚南道密陽(ミリャン)に伝承され、全国的にも有名な説話だ。
朝鮮後期の学者洪(ホン)直(ジク)弼(ピル)の「記(キ)嶺(リョン)南樓事(ナムルサ)」や、同じく朝鮮後期の学者裵克紹(ペグㇰソ)の「科體(クヮチェ)詩(シ)」、他にも「靑(チョン)丘野談(グヤダム)」や「東野彙輯(トンヤフィジプ)」、「錦溪(クムゲ)筆談(ピルダム)」など朝鮮後期の野談集に収録されている。
「靑丘野談」には、阿娘殺人事件の解明に密陽府使夫人が活躍する姿が語られ、阿娘の死に対する当時の人々の憤りが垣間見える。
時代が下るにつれ、「幽霊の出現」がクローズアップされ、「恐怖」を前面に押し出す傾向になり、後の「薔花紅蓮傳」や「コンチゥィパッチゥィ」などの作品に影響を与えたといわれる。
その後「阿娘説話」は、映画やドラマ、演劇やゲームなどに姿を変え、「密陽アリラン大祝祭」のような地域振興のコンテンツとしても「機能」することになる。
阿娘の訴え
ストーカーによる強姦未遂の殺人事件であるが、変わった説話である。
野談には、阿娘をひと目見た時から執拗に乳母に接近し、時間をかけて懐柔、何度も金品を渡し、おびき出すことに成功する下級官吏の男の姿が描かれる。「身分違いの純愛」などではなく、強姦目的の行為である。なぜなら、「想い」を遂げられない場合、殺害する目的で刃物を持参しているのだ。地方長官の一人娘に話しかけることすら憚られる身分の男が、そもそも阿娘に懸想するなど命知らずな行為である。
それほどまでに、この密陽府使一家は軽んじられていたという示唆だろうか。また幼い頃から面倒を見ている母親同然の乳母が、いとも簡単に阿娘を売り渡す行為は衝撃的である。この乳母も密陽府使一家を軽んじていたのだろうか。無残に殺害された阿娘は幽霊になり、その無念を訴えようとするが、なぜ、まず父親の所に現れないのか?父親はなぜ府使を辞め、都に戻ったのか。それは本来「貞淑」であるべき両班家の娘が、なにか「ふしだら」な行動に出たのではないかと疑ったからではないのか。阿娘の幽霊をひと目見ただけで次々と死んでしまう新任の府使たちは、はたして「可哀そうな犠牲者」なのだろうか。