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〈読書エッセー〉晴講雨読・シーボルトの研究報告『朝鮮』/任正爀

2024年03月27日 09:00 寄稿

江戸時代に日本は鎖国していたが、例外が朝鮮と中国、オランダである。周知のようにオランダとは長崎を通じて貿易を行っていた。出島のオランダ商館には多数の西洋人が滞在したが、そのなかでもっとも有名な人物はおそらくシーボルトだろう。

シーボルト

27歳の若いドイツ医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが初めて来日したのは1823年のことである。日本の蘭学史上に大きな足跡を残し、「シーボルト事件」によって国外追放令を受け、それが解かれた30年後に産婦人科医として成長した愛娘おいねとの劇的な再会を果たすその人である。

かれはオランダ商館で医師として滞在しながら、後に西欧学術の光源とまで言われた「鳴滝塾」を主宰し、湊長安、高野長英、高良斎をはじめとする数多くの俊英を世に送りだした。

帰国後は、自身の研究と塾生たちに提出させたレポートをもとに1832年から51年にかけて研究報告集『日本』を出版している。全4部、12編からなるこの大著は、当時の日本に関する最高水準の研究書として知られているが、実はその第11編が朝鮮に関する報告であることは、あまり知られていない。雄勝堂書店から日本語訳が出版されているが、本文全6巻の第5巻が『朝鮮』であり、『図録』の第3巻に関連する図が収録されている。

日本も西欧諸国からすれば、まだまだ未知の国であったが、それ以上に朝鮮はベールに包まれていた。したがって、シーボルトの報告は実に貴重なものであったに違いない。もちろん、かれは実際には朝鮮の地を踏むことはなかった。かれの見た朝鮮は漂着して長崎に滞在していた朝鮮人を通じてのものであり、日本での情報、文献などによるものである。

図は図録集にある、漂着した朝鮮人漁民のスケッチであるが、かれらの印象についてシーボルトは次のように書いている。

朝鮮人漁民のスケッチ(『図録』より)

「朝鮮人の態度はまじめで落ち着いており、ときには快活で、あけっぴろげである。歩き方はしっかりとしていると同時に機敏である。姿勢は一般に日本人のそれより自律性と自由さに富んでいることをうかがわせる。また、物腰からも日本人や中国人よりエネルギーと戦闘的精神を強く放射している。・・・かれらは、正直、忠実で、人がよいということであるが、かれらを清潔、親切だとしてほめる気はあまりしない。かれらは健嘆で、アルコール類に目がなく、日本人よりはるかにアジア的なのんびり傾向が強いようである。」

読んで思わず苦笑いしたが、シーボルトが出会った朝鮮人の多くは、漁民や船員たちであったが、なかには知識人もいて、次のような内容の許士瞻の漢詩を贈られている。

三国人がこの室に相会している/すでに故き漢武は葡萄の汁を観ている/われわれは今日の訪問で歓待を受けた/握手して別れても、この親切は忘れることはないだろう。

「この難破した人たちの心情の吐露は、限られた知識の断片に過ぎないとしても、その内容と表現はこころと精神が陶冶されていることを物語っている。自分の思想を即席に型に当てはめて、十分ではなくても間違いのない中国文字でさらさらと書く能力は、朝鮮の文化水準についてのよいイメージをわれわれにあたえた。かれらのふるまい全体ににじみ出ている、そしてこういう詩で自分をほのぼのと語る真率な心根は、この国民について、これまで邪推と強迫でその海岸と国境から外国人を追い出してきた国民というイメージより、よほど好感の持てるイメージをわれわれに抱かせるものである」とシーボルトは書いている、

シーボルト以前、朝鮮の事情を伝えるものとして平凡社東洋文庫の一冊として出版されているハメル『朝鮮幽囚記』があるが、それに比べるとかなり好意的と言える。

許士瞻の漢詩

事実、シーボルトは朝鮮政府のハメルらに対する処遇は国内事情から見れば寛大であったとも書いている。

シーボルトの報告は、「日本の海岸に漂着した朝鮮人より得た朝鮮事情」、「朝鮮人、対馬の武士および役人、釜山の日本商館などから得た情報」、「語彙」、「日本人漁民の朝鮮見聞記」、「朝鮮国の制度、官吏および廷臣」、「中国語彙『類合』」、「日本の文献による日朝、日中関係」、「千字文」によって構成されている。それらについての詳しい検討は今後の課題であるが、とくに言語学と朝・日関係史に関する報告が注目される。

朝・日関係史はかれの協力者、I・ホフマンによるものであるが、総説とともに、紀元前33年から1600年までの年代記によって構成され、かなり詳しい。しかし、これはあくまでも、日本の文献を基にしたもので、例えば「神功皇后の新羅遠征」や「任那日本府」、さらには「秀吉の朝鮮進出」など日本側の視点による。当時、この本が朝鮮についての随一のものであったとすれば、これは列強の朝鮮侵略になんらかの影響を与えたかも知れない。

事実、1853年浦賀に来航したペリーはこの本によって日本についての予備知識を得ている。また、江戸時代は朝鮮通信使の往来などのあった友好善隣の時代であり、明治以降にそれが逆転したとよく言われるが、外国での文献においてさえ明治以降と同じような記述があることを思えば、一概にそうとは言えないのではないだろうか。

この研究報告がどのような意味を持つのかという考察は専門家に委ねたいが、一つ発見したことがある。「シーボルト事件」の発端は、かれが帰国時に持ち出そうとした資料のなかに高橋景保「日本辺海全図」をはじめとするご禁制の品が含まれていたからである。密告者は間宮林蔵ともいわているが、それによって高橋景保は極刑に処せられた。

『日本辺海略図』(翻刻版)

しかし、シーボルトはそれを模写しており、報告集に収録した。ところが、「日本辺海全図」の原図では、朝鮮半島右の沿海を「朝鮮海」と表記しているのだが、シーボルトの翻訳図では日本列島左の沿海を「日本海」としている。ヨーロッパ製の日本図は、シーボルトに至り完成の域に達したといわれており、以後の西洋地図に影響を与えた。図らずもシーボルトは、現在の政治的問題の火種を残したのである。

(朝大理工学部講師)

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