〈歴史の「語り部」を探して〉碑に刻まれた植民地支配の歴史/栃木編
2023年10月06日 08:30 歴史栃木県では、1996年に朝鮮人強制連行真相調査団(以下、調査団)が結成され、現地調査と証言集めなどを通じて強制連行に関する真相調査がなされてきた。その賜物として98年に報告書『遥かなるアリランの故郷よ―栃木県朝鮮人強制連行真相調査の記録―』(栃木県朝鮮人強制連行真相調査団編)が発行されている。7月19日、研究者の内海隆男さんの案内で、栃木の黒部ダム建設で犠牲となった朝鮮人労働者の名前が刻まれた「哀悼之碑」、関東大震災時に地元の村人たちが「朝鮮人を出せ」と言って建設現場に押し寄せたという中岩ダムを巡った。
1910年代の犠牲者
栃木の黒部ダムは下滝発電所の取水用堰(えん)堤として建設され1912年に完成した。日本で最初の発電専用コンクリートダムであるとともに最大規模だった同ダムの電力は東京に送るためのものだった。
そのような大規模なダム工事に当時、植民地下にあった朝鮮人の労働者も動員されていた。12年6月29日付の『東京朝日新聞』によると、それらの建設事業に7800人の土工人夫が働いていたことが記されている。内訳を見ると、黒部ダムと水路工事の一部を請け負った早川組の2070人中24人が、下滝発電所と水路工事を担当した大丸組の5294人中52人が朝鮮人労働者だった。
一行は、栃木市内から車を走らせ高速道路を利用し、今市インターチェンジで降りた。内海さんの話によると、「いい話がある」と騙され、あるいは誘拐された日本各地からの労働者が今市駅経由で、山の中の建設現場へ向かったという。
当時労働者が実際に荷物などを運び、移動に使ったとされる道を車で上がり、栗山村にある黒部ダムおよび「哀悼之碑」にたどり着いた。
10年前、内海さんが調査団のメンバーから預かった資料には、ダム建設の現場で亡くなった犠牲者の中に朝鮮人が1人含まれていると記されていた。それを基に調査を行う過程で、内海さんは、当時工事を請け負った早川組が労働犠牲者のために建てた「哀悼之碑」(13年建立)を旧日光市立栗山小中学校跡地(学校は2023年3月に閉校)付近で見つけるに至った。
今回、老朽化した碑に書かれた朝鮮人の名前を確認しようと、「拓本取り」(文字の窪みの上に画仙紙などの紙を当てて墨などで摺り、石碑の銘文や模様を写し取る手法)を行った。目視でかすかに見える部分を中心に字を紙に写していくと、名前が徐々に浮かび上がってきた。
「朝鮮 金英七」―。
異郷の地での重労働の末に亡くなった朝鮮人は