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【連載】「消えない傷み~関東大震災朝鮮人虐殺100年・体験者の告白~」②

2023年09月03日 06:00 歴史

鮮明な記憶、「朝鮮人やっちまえ!」

柳橋(東京)付近の集団虐殺現場

1923年9月1日に発生したマグニチュード7.9の大地震は東京、埼玉、神奈川など関東一円を襲い、人々を混乱に陥れた。同日から巷では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火している」などの流言蜚語がまわりはじめる。当時、日本の政府、軍、警察が主体となり起こした「朝鮮人狩り」は、少なくとも6千600人以上の犠牲者を生んだとされているが、今日に至っても真相究明を拒む日本政府の姿勢は、犠牲者とその遺族、体験者らを苦しみに晒し続けている。

【連載】「消えない傷み~関東大震災朝鮮人虐殺100年・体験者の告白~」では100年前の関東大震災時にあった朝鮮人虐殺を目撃および体験した同胞たちの証言を、朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963)から紹介していく。

李鐘応さん(東京都台東区)

私は、1922年(28歳)の2月に日本に渡りました。そして呉、大阪、名古屋等の飯場や山梨県早川の近くの発電所ダム工事場を歩いて1922年の4月に東京にやってきました。7月から本郷の区役所の臨時雇になり、10月からは日比谷公園の掃除夫として働いていました。9月1日は丁度公園の仕事が休みだったので、その日を利用して上野広小路の市電敷設工事に出て働いていました。12時2分前、突然地震がおそってきました。電車が倒れ家も倒れ方々で火災が起こりました。私は夢中で雑司谷の螢雪寮(朝鮮人学生寮)に帰りました。一晩中地震がつづき、弟と甥がどうなっているのかと心配して私を探しにきました。

翌日の1時前、食堂に昼飯を食べに行こうとすると、朝鮮人を手あたりしだいに殺しているといううわさが聞こえてきました。それで私たちは一歩も外に出ることもできず部屋の中にとじこもっていました。

夜になりあまり蒸し暑いので家の前にゴザをしきそこでみな寝ることにしました。真夜中になって、

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