〈歴史の「語り部」を探して〉隠したてられた朝鮮人犠牲者/大阪編
2022年10月31日 07:44 歴史資料冊子「大阪空襲と朝鮮人そして強制連行」(2022年発刊)は、植民地時代の在阪朝鮮人の暮らしや、強制連行、強制労働の現場と実態について詳しく紹介している。さらに空襲を体験した在日同胞の証言もまとめられている。冊子を片手に、大阪空襲と在日朝鮮人の爪跡が残る現場を回った。
崇禅寺に刻まれた名
大阪梅田駅から阪急線に乗って約10分。「崇禅寺」駅に下車する。住宅街に囲まれ、のどかで閑静な空気がただよう町だ。5分ほど歩くと「凌雲山崇禅寺」にたどり着く。
1945年3月10日の東京大空襲、12日の名古屋大空襲に続き、13日の夜中から始まった大阪空襲。米軍機B29は約35万発の焼夷弾を投下し、市内中心部では、50万戸にのぼる民家が焼ける被害をもたらした。空襲は8月まで続き、計8回行われた。町には昼夜を問わず爆弾や焼夷弾、機銃掃射が次々と投下され、街中には阿鼻叫喚の光景が広がった。
アジア最大の兵器工場「大阪砲兵工廠」の破壊と大阪府東部の焼きうちを目的に行われた空襲は、当時の西成区、大正区、東淀川区、旭区などの朝鮮人集住地区にも壊滅的な被害を及ぼした。「地方長官会議説明資料」によると、空襲による朝鮮人罹災者数は4万5千573人。在阪朝鮮人の約89%にのぼるという。
当時、多くの死傷者が運び込まれた崇禅寺(東淀川区)には、日本人とともに朝鮮人犠牲者の名前が刻まれた碑がある。1953年、在日同胞と日本人が共同で手がけたものだ。
本堂左手に伸びた道を進むと見えてくる墓地の奥側に、それはあった。「戦災犠牲者慰霊塔」と刻まれた墓碑のそばに並んだ、長方形の2つの石碑だ。