〈学美の世界 40〉目のある風景/金誠民
2022年04月25日 16:25 寄稿思春期の頃、造形表現の世界に身をおく者は、他では味わえない特別な経験ができる。
それは真っすぐに何かを「見る」経験である。
ある造形が始まった。表現者は、自らが求めるままに「イメージのまな板」の上に素材をおいてみる。
あれもこれもと出来上がりを想像しながら構想を楽しむ。
イメージのまな板の上に積まれた素材(事柄)は次々と目によってさばかれる。
目の前にある事柄は、どれも移ろいゆくただの現象(作品1)。
若き表現者の目は鋭く、大人が一生懸命に作り上げた概念の皮をデロリと剝がし、内側にある身をむき出しにする。それは、ある事柄にたいして世の中が共有する「みんなの意味」と呼応しながらも「自分にとっての意味」をみつける探求である。それは、自分の破片を自分で集めていく大切な過程である。
イメージのまな板の上で鍛えられた「目」は、フットワークが軽く、千里眼となって飛んでいく。
野こえ、山こえ、谷こえて、いろんなところを駆けぬける。そして、ひょろりと絵の中に現れる。
ある日、空に目があった(作品2)。
それは、静かに閉じたまま、青く澄んだ玉を落とした。
玉はみなもに丸く伝わり、悲しい紋を刻んで消えた。
ある時、大地に目があった(作品3)。
それは、まっすぐ見開いて、赤く濁った雫をこぼす。
雫はひどく乾いたひび割れの中で、優しい怒りを沸きたてた。
ある朝、近くに目があった(作品4)。
それは、ゆらゆら揺れながら、白い背中を突き刺した。
いつもの日常に問いをたて、あるべきすがたを手繰りよせる。
△ △
若き表現者の目は、自分の鼓動にいつも忠実である。
だからと言って彼らはけっして傲慢ではない。
それどころか、世の中に寄り添いながら、世の中との付き合い方をいつも模索している。
世の中を輪郭に沿って夢中に模索していると、光の届かない深淵に突きあたる時がある。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」(フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』より)
なるほど、深淵をのぞく者は、深淵にとらわれてしまう恐れがあるという。
でも、心配することはない。若き表現者が深淵をのぞく時、いつも隣に仲間(理解者)がいる。
だからこそ、若き表現者は思いのままに深淵に光をあてる。
そうじて、思春期の頃、造形表現の世界に身をおく者が味わう特別な経験である。
(在日朝鮮学生美術展中央審査副委員長、尼崎初中、神戸初中美術専任講師)