“百聞は一見に如かず”の精神/長野・日朝連帯運動の歴史に学ぶ
2022年02月09日 09:00 交流年間約600万人が訪れる観光都市「長野市」の玄関口・JR長野駅。多くの人が行き交うその駅前広場近くに、静かにたたずむ小さな碑がある。「日朝親善の石碑」と呼ばれるその碑は、総聯長野県本部が県下に住む同胞たちの朝鮮への帰国を記念し、1960年、長野市に「玉いぶき45本、高麗芝143㎡および中央広場に敷く玉砂利を寄贈」(「日本と朝鮮」長野県版、1960年7月25日付)したことから、当時、植樹記念碑として設置されたものだ。以降、朝・日友好のシンボルとして、現在まで同じ場所にあり続けている。
このような朝・日友好の精神が古くから根ざす長野で、1970年代以降、総聯とともに長野における日朝連帯運動を牽引したのが「県民会議」であった。
日本人への問題提起
正式名称は「朝鮮の自主的平和統一を支持する長野県民会議」。来年2月に結成45年を迎える「県民会議」では、大水害や干ばつなど1990年代の朝鮮における自然災害に際し、独自の救援活動を行うほか、朝鮮学校や在日同胞の民族的権利と関連して問題が提起される度に、国や行政へ働きかけるなど、結成以来、組織化された活動で長野における日朝連帯運動を推し進めてきた。
1972年7月4日、「祖国の統一を、自主的に、平和的方法で、思想と理念、制度の差異を越えた民族大団結によって実現する」ことを宣明した7・4南北共同声明と同日に、長野では県議会超党派議員50人の参加のもと、長野県日朝議連(長野県日朝友好促進議員連盟)の設立総会が開催された。この議連設立が、その後の日朝連帯運動に弾みをつけ、77年12月24日に「県民会議」結成準備会が、翌78年2月23日には、約120人の参加のもと「県民会議」結成総会が開かれる運びとなる。
運営委員として、長年にわたり「県民会議」に携わってきた喜多英之さん(長野県労組会議事務局長)によれば、当時結成へと向かう流れは「米国の原爆投下により戦争の被害者意識がある一方、日本の戦争侵略に対する加害者意識がない日本人に対し、日本人自身が問題提起をする側面もあった」という。
「日朝友好・親善交流と日本の加害歴史に向き合うという両面から成り立つ団体の結成であった」(喜多さん)
骨太な運動体
他方で、注目に値するのは、「県民会議」を現在までつづく骨太な運動体へと成長させた人々の存在だ。
関係者たちが「『県民会議』の推進力」だったと口をそろえる故・土屋途汝夫氏は、長野県日朝議連や「県民会議」の立ち上げに一翼を担った人物。1944年、18歳の頃に志願兵として海軍に入隊、当時の戦争体験が、後の反戦平和や朝鮮問題に対する活動の原点となり、74年7月に朝鮮を初訪問したのをきっかけとして、日朝連帯運動に取り組む運動体づくりに奔走した。
「これほど労働者を大切にする国があったのか」。訪朝後、そう周囲に話していたという同氏は当時、私鉄長野県連執行委員長を務めていたこともあり「労働者の権利に敏感だった。前知識なしで朝鮮を訪問したから、なおさら衝撃だったのだろう」と喜多さんは回想する。
「偏見をもった人が途汝夫さんに対し、朝鮮批判をすると『おい、一回いっしょに朝鮮へ行くか』と、『百聞は一見に如かず』の精神で多くの訪朝者を送り出し、その結果、長野県の日朝運動は骨太に育った」(喜多さん)
そんな土屋さんが遺した「労働組合の運動をやるからには日朝問題にとりくんでこそ一人前」という言葉は、今も「県民会議」のメンバーたちが日朝連帯運動に取り組むうえで、大切にする行動指針のようなものだ。その他にも、「日朝問題は、日本人自身の問題だ。隣国との関係改善という意味以上に戦後日本の民主主義を測るバロメーター」(故・伊藤晃二会長)など、一貫した哲学をもって活動に取り組んできた歴代会長たちの思いを継いだ人々が、「県民会議」を筆頭に、長野・松本・上小など各地に結成された「地区組織」に携わりながら、長野日朝連帯運動の旗振り役を担っている。
訪朝、学習、交流