<朝鮮に「核」を持たせたのは米国 ④>衛星に言いがかり、核実験を招く
2021年11月06日 07:52 対外・国際「崩壊」妄想に囚われた「戦略的忍耐」
ブッシュ政権の単独主義外交を否定してスタートしたオバマ政権は、「Change(変化)」のスローガンとは裏腹に、歴代政権の朝鮮敵視政策を踏襲した。対決観念から抜け出せない大統領が8年の任期中に同じ過ちを繰り返し、朝鮮の自衛的核抑止力を一段と拡大強化させた。
プラハ演説で露になった敵意
朝鮮の最初の核実験(2006.10.9)の後に再開された6者会談は、朝鮮の「平和的核動力工業の凍結」対「米国のテロ支援国指定解除」など非核化の第1段階措置を合意、実行したが、検証問題で対立が生じて2008年12月の6者団長会談を最後に中断した。
オバマ政権は、翌年の2009年1月に発足した。大統領は就任演説で「古くからの友好国、かつての敵とともに核の脅威を減らす」と言明したが、米国はその後、核問題を議論する6者会談に二度と参加できなくなる。
一方、朝鮮では2008年12月、千里馬製鋼連合企業所を現地指導した最高指導者、金正日総書記の呼びかけに応じるかたちで「2012年までに強盛大国の大門を開くための革命的大高揚」が始まっていた。 2009年2月には朝鮮の宇宙空間技術委員会が試験通信衛星「光明星-2」号を運搬ロケット「銀河-2」号で打ち上げるための準備が進められていることを明らかにする。最高指導者の活動と結びついた朝鮮のロードマップに基づけば、国家経済発展に不可欠な実用衛星打ち上げの前工程である試験衛星打ち上げも「2012年構想」に沿った事業であった。
オバマ政権発足を前後する時期から、朝鮮が「ミサイル発射を準備」しているという未確認情報がメディアを通じて広がっていた。同盟国が打ち上げるミサイルは問題視しないが、敵対する国が打ち上げれば人工衛星も「脅威」とみなして緊張を煽る悪習が繰り返されていた。
朝鮮は、その年の3月に国際宇宙条約に加入し、国際民間航空機関と国際海事機関に飛行機と船舶の航行安全に必要な資料を通知するなど、人工衛星打ち上げの国際的規定に基づいて手続きを踏んだ。打ち上げに関する朝鮮の事前通知は、敵対する国々の為政者たちに人工衛星を「ミサイル」と見なす対決構図に対する自省の機会を与えるものであった。しかしあれほど「Change」を提唱した大統領は悪い習慣を断ち切ることができなかった。
4月5日、「光明星-2」号が成功裏に打ち上げられたのと時を同じくして、オバマ大統領はプラハで「核なき世界」のテーマで演説した。演説には「北朝鮮は、ルールに違反したし、処罰を受けなければならない」という一節が付け加えられた。後日、彼は自身の回顧録に「演説前日、北朝鮮は我々の関心を引くために長距離ロケットを太平洋に向けて発射した」と記している。朝鮮の行動を敵対的な観点から捉え、「2012年構想」に沿った事業を国際社会の緊張を煽る「瀬戸際戦術」と見なしていたことを告白したわけだ。
4月14日、国連安全保障理事会は米国の主張を受け入れ、朝鮮の人工衛星打ち上げを糾弾する議長声明を発表する。声明に効力はなかったが、国連安全保障理事会が人工衛星打ち上げを問題視したのは初めての出来事であった。ブッシュ政権によって朝鮮と同じく「悪の枢軸」と規定されたイランは、その年の2月に人工衛星を打ち上げたが国連では扱われなかった。
結果的には、朝鮮の平和的衛星打ち上げまで封じ込めようとした米国の傲慢が禍を大きくした。その日に発表された朝鮮外務省声明は、6者会談参加国が国連安全保障理事会の名を借りて9.19共同声明に明記された自主権尊重と主権平等の精神を全面否定した以上、「我々が参加する6者会談は必要なくなった」とし、「自衛的核抑止力をあらゆる面から強化する」と明言する。
5月25日、2回目の地下核試験が行われた。当時、国営の朝鮮中央通信は「今回の核実験成功は、強盛大国の大門を開くための新たな革命的大高揚の中にいるわが軍隊と人民を鼓舞している」と強調した。
くり返された諜報失敗
核実験の後、米国の態度が変わる。その年の8月、クリントン前大統領が不法入国して労働教化刑を受けた米国人記者の釈放のために平壌を訪問、朝米関係改善の方法に関する見解を述べたオバマ大統領の口頭メッセージを金正日総書記に伝達する。 12月にはスティーブン・ボズワース対朝鮮政策特別代表が平壌を訪問し、朝鮮側と会談した。
年が替わり2010年1月、朝鮮外務省は最高指導者の委任に基づいて朝鮮戦争勃発60年になるこの年に停戦協定を平和協定に変えるための協議を開始することを停戦協定当事国(中国、米国)に提案した。当時、朝鮮のメディアは敵対関係の根源を取り除き信頼醸成によって非核化プロセスを再び軌道に乗せるこの提案が「朝米関係の全過程に対する総括」(労働新聞)に基づいたものだと伝えていた。戦争が終結し平和的な環境の中で「強盛大国の大門」が開かれれば、その意義は大きい。
ブッシュ政権は、この提案を無視した。その年の3月に南朝鮮軍の艦船「天安」号が西海に沈没する事件が起きると「北朝鮮の脅威」を鼓吹し、これを東北アジアにおいて中国、ロシアを軍事的に牽制し、沖縄の米軍基地問題などで日本に圧力を加える口実に利用した。
朝鮮が2回目の核実験を実施した時期には、すでに米国で「寛大な無視(benign neglect)」という外交用語が使われていた。 そして「天安」号沈没事件が起きた後、ソウルを訪れたヒラリー・クリントン国務長官が、李明博大統領と会談した際に主張したという「戦略的忍耐(strategic patience)」が、オバマ政権の対朝鮮政策として定着した。これに関与した元官僚たちは後日、朝鮮が核・ミサイルを放棄しない限り、交渉しないことを標榜した政策は「放っておけば、北朝鮮は自ら崩壊する」という考えに基づいたことを認めている。
その年の11月、延坪島からの射撃を発端に北南間で砲撃戦が起き、有名無実化してから久しい停戦体制の限界点が露呈した。戦争拡大を防ぐため停戦協定当事国(朝・中・米)が対話再開を模索し、翌年の2011年7月にニューヨーク、10月にジュネーブで朝米高位級会談が開かれた。ところがその年の12月、金正日総書記が逝去すると「体制不安」、「急変事態」の情報が飛び交った。後日、ニューヨーク・タイムズをはじめとする米メディアは、関係者への取材に基づいて当時、米国の情報当局が大統領に対して行った朝鮮の内政に関するブリーフィングは間違っていたと暴露している。
戦争の危機と並進路線の採用
2012年2月、北京で開かれた3回目の朝米高位級会談で双方は信頼醸成措置を同時にとることで合意した。
2012年までに「強盛大国の大門」を開くとしていた朝鮮は、この年の4月に人工衛星「光明星-3」号を発射したが軌道進入は失敗に終わった。国連安全保障理事会で人口衛星打ち上げを糾弾する議長声明が発表されたが、朝鮮は対抗措置を自制した。
2012年は米国で大統領選挙が実施される年であった。その年の4月と8月、ホワイトハウスの国家安全保障会議をはじめとする中核組織の政策立案者たちが秘密裏に平壌に派遣されたことが知られている。 8月の交渉と関連しては、当時の米メディアでも「オバマ再選がかかった11月の選挙を控えて朝鮮の行動自制を再度要求し、米国の対応措置を提案した可能性」が取りざたされていた。
朝鮮が4月の失敗を挽回し、「光明星-3」号の2号機が打ち上げに成功したのは12月12日であった。その後、朝鮮メディアは「我々は、敢えて情勢が比較的穏やかなときを選んで打ち上げ時期を決めるなど、衛星打ち上げの平和的性格を立証するためにあらゆる努力を傾けた」(2013.1. 26)と明らかにしている。
ところが、朝鮮に対する無知と諜報活動の失敗から抜け出せなかった大統領は、善意に悪意で応え致命的なミスを犯した。
2013年1月、人工衛星打ち上げを非難し、朝鮮に制裁を科す国連安保理決議が採択されると、朝鮮は「自主権を守るための全面対決戦」を始めることを宣言、2月12日に3回目の地下核試験を断行する。
その後、米国が南との合同軍事演習を強行すると人民軍最高司令部スポークスマン声明を通じて「停戦協定を完全に白紙化する」と宣言、戦争再燃の危機が高まる中、3月3日には朝鮮労働党中央委員会総会で経済建設と核武力建設を並進させるという新たな戦略路線が採択された。
米国に対する外交的考慮は完全に終わり、朝鮮の自衛的核抑止力強化に一層拍車が掛かることになった。
その後も、オバマ政権は「戦略的忍耐」を続けた。しかし並進路線が採択された以上、朝鮮が核・ミサイル放棄の要求に応じるはずもなく、実際には無為無策で時間を浪費するだけであった。 「核なき世界」を訴えノーベル平和賞を受けた大統領の在任期間に朝鮮は4度にわたり核実験を行った。 2006年1月は、水爆実験であった。その年の9月に行われた実験では、核弾頭を弾道ミサイルに装着する段階に達したことを最終確認した。
2016年11月の大統領選挙が終わった後、オバマ政権は、ドナルド・トランプの政権引き継ぎ委員会に「米国の国家安全保障政策の最優先順位は北朝鮮」と伝えている。大統領自身もホワイトハウスを訪れた後継者に同じ趣旨の助言をしたという。しかし、「その脅威をより大きくしたは、私たちだ」という真実は語らなかった。
(金志永)