【寄稿】白磁に愛された画家・呉炳学/趙世顕
2021年10月15日 09:00 寄稿2021年9月6日夕方17時頃。
この日は朝から妙にソワソワして落ち着きのない1日であった。
そんな中、アボジ(父)から1本のメールが届いた。
「呉炳学先生が今日、昼に肺炎でなくなりました」
その内容を目にして、背筋を刃で刺される気分であった。
呉先生は私が産まれてから37年間、常に近くにいる存在であった。
両親と共に渋谷の焼肉屋を訪れる日は、きまって呉先生と焼肉を頬張る日というのはわが家の長年の恒例行事であった。
孫がハラボジ(祖父)と会うような感覚だ。
和気藹々と食事を楽しんだ後には、幼かった僕ら子どもたちに「立派な朝鮮人になりなさい」と語り出すのが定番であった。
あらゆる苦難の道のりを乗り越えた呉先生の言葉の重みは、他に類を見ないものだと子どもながら痛感したことを覚えている。
激動の青年期
1924年1月21日生まれ。
平安南道順川郡出身。
呉先生の青年期は激動であった。
時代は日帝による植民地時代。日本語を強制され、「創氏改名」を命じられ、神社参拝を強要された同化政策の真っ只中であった。
商業学校の美術部でも群を抜いていた若き呉青年はある日、古本屋にあったセザンヌとゴッホの画集が目に止まった。どうにか購入したいと思い悩む中、その思いを兄・権学へ打ち明けた。
決して裕福ではなく中学を2年で退学した兄は、家族のために鉄道員として働いていた。古本とはいえ画集は決して安いものではなく、どうにかお金を算段し弟へセザンヌの画集を買ってあげた。
その画集にどれだけの思いが詰まっていたことか。画集をめくる日々は呉青年の心に画家への志を必然的に芽生えさせた。
「平壌を旅立つ日は雪が降ってとても寒い日だった。あの日の景色を忘れることはない」
先生はよくその日の思い出を語られていた。
1942年12月に父の反対を押し切り上京するも、1944年初夏、敗戦へ向かう戦争のために朝鮮人徴兵制が適用され平壌への帰還を強いられた。同年12月に再来日を果たす。
玉音放送を耳にした後の1946年、日本を代表するセザンヌ研究者の画家・安井曾太郎に師事するために藝大を受験し合格。しかし安井曾太郎が一度も大学に顔を出さないことへの失望と学費の滞納が重なり2年で中退。フランス留学を夢見るも国籍問題によりパスポートを取得することができず実現しなかった。
おそらくここが人生の岐路であったに違いない。
以後、日本の公募団体展や派閥にも属さずに、絵を書き続けることとなった。
根源的美学
呉先生はセザンヌ、ゴッホの他にもピカソ、クレー、コローなどの画家たちから影響を受けたが特にセザンヌを愛した。
呉先生のアトリエを訪れた際、時折ゴヤやベラスケスの絵画のポスターを貼られていたことも覚えている。
そして年月を重ねる毎に朝鮮文化の特色が鮮明に表れ始めた。
激動の青年期を象徴する暗い色合いからセットンが色鮮やかに表れた。
白衣民族の「白」を象徴する美しい流線の白磁、シャーマニズムにあふれプリミティブで躍動的な仮面劇は時折キュビズムの影響もにじみ出て律動的だ。
静物画の果物や人物画は内包する生命力をより一層強く放ち、より重みのある作品へと成熟していった。
コミカルで喜怒哀楽の表情豊かな朝鮮仮面は呉先生の手により鮮烈に蘇生された。
決してセザンヌの亜流ではない、呉先生のマグマのような情熱と朝鮮民族の文化の精神的根源が生み出した鮮烈な個性そのものであった。
それは朝鮮半島の画家たちにも見ることの出来ない「在日」としての画家像でもある。
そんな個性豊かな作品たちが並ぶ呉先生の個展を私はいつも楽しみにしていた。
画廊で呉先生と再会すると、迷いもなく力強い握手を交わすのも決まり事であった。
新旧問わず展示された作品を吟味し、気になる作品について呉先生と談義をする時間はとても至福であった。
晩年、作風に少し変化が見えた。