<朝鮮に「核」を持たせたのは米国 ② > イラク侵攻直後の「先核放棄」強要
2021年10月17日 08:55 対外・国際“自衛のための核抑止力”の論理
2003年1月10日、米国の敵視政策に対抗して核拡散防止条約(NPT)からの脱退したときまで、朝鮮は「NPTから脱退するが核兵器をつくる意思はなく、現段階での我々の核活動は電力生産をはじめとする平和的目的に限定される」(朝鮮政府声明)と表明していた。
「米国が敵視圧殺政策をやめて核の脅威を取り除くならば、我々は核兵器をつくらないことを朝米間の別途の検証を通じて証明することもできるだろう」という立場も明らかにしていた。
戦争勃発後の朝米対話
しかし、アフガニスタン侵攻に続く「反テロ戦争」の拡大を狙っていた大統領と強硬タカ派の側近たちの眼中に「北朝鮮との交渉」はなかった。
その年の3月20日、米国は「悪の枢軸」の一つと見なしたイラクに対する軍事攻撃を始めた。「大量破壊兵器保有国」とされたイラクは国連決議による査察に協力して射程距離150km以上のミサイルを廃棄するなど、自ら武装解除した後に爆撃された。
当時、米国のラムズフェルド国防長官は「米国は反テロ戦争とイラク戦争、北朝鮮との戦争を同時に行うことができるか」という問いに対して、「そうだ。我々は必要なことを完璧に遂行する能力を備えている」(2002.12. 24記者会見)と公言していた。
米国のイラク攻撃に対する朝鮮の最初の反応は、「我々が正当防衛のためのすべてのものを備えながら、他に何をしなければならないかを気づかせてくれている」(2003.3.21外務省スポークスマン)というものであった。
根拠もなく「高濃縮ウラン計画(HEUP)」説を持って平壌を訪れた「米国大統領特使」を追い出して以来、朝鮮は、すべて問題解決方式の基準点は自国の自主権と生存権に対する脅威の除去であり、その基準点を満たすためには、交渉の方法もあり抑止力の方法もあり得ると表明していた。
イラク戦争が勃発すると、朝鮮は米国に対して「交渉か、抑止力か」の二者択一をより強く要求した。
バグダッド爆撃が始まった2002年3月からの数ヶ月間は、朝鮮と米国が重大な岐路に立った時期だった。この期間に核対決の当事国がとった行動、会談場の内外で展開した論理と主張、その帰結として下された決断によって対決の局面が変わり、核をめぐる攻防戦は従来と異なる様相を呈するようになる。
世界がその過程を目撃した。
当時、国連の決議なしに、いわゆる「有志連合」によってイラクを侵攻した米国の独断と専横に対する国際社会の反発が起きていた。朝鮮の周辺国は「HEUP」説を口実にした戦争拡大に反対した。核問題解決のための仲裁案も提示した。
4月23日から25日まで北京で開催国である中国が司会を務める朝米間の核問題に関する協議が行われた。
米国は、北京での「3者会談」を「バグダッド効果」の産物と思い込もうとしたが、朝鮮はイラクの首都が陥落する場面を見て危機感を持ち会談に応じたのではなかった。目的は、朝鮮敵視政策の転換に関する米国の意志を計ることにあった。
前年に「大統領特使」として平壌を訪問したケリー国務省次官補が米国側代表を務めた。彼は問題解決の方法を示すことなく、従来の主張を繰り返した。
イラク戦争勃発直後に実現した朝米対話は、国際社会の期待と関心を集めたが、成果なく終わった。米国は核問題を国連に上程しようとした。一方、朝鮮は「我々はやむを得ず必要な抑止力を備えることを決心し、行動に移さざるを得なくなった」と明らかにし、「このような事態は我々ではなく米国がつくりだした」(外務省スポークスマン)と指摘、核対決が激化した責任の所在を明確にした。
“交渉は北朝鮮が武装解除した後”
ブッシュ政権は、決定的な時期に「交渉か、抑止力か」の二者択一を避けた。「HEUP」説を持ち出し、約束違反に対する補償はないというレトリックで米国の責任を打ち消し、朝鮮の行動だけ要求する構図をつくりだそうとした。
特に朝鮮半島の核問題は国際的な懸案であり、それに相応する会談の形式をとらなければならないと強弁した。米国が多国間安保の論理を並べ立て、二国間会談ではなく多国間協議の枠組みを主張したのは、交渉の意向からではなく、朝鮮に対する国際的圧力を形成するための外交的試みに過ぎなかった。
自国を「悪の枢軸」と規定したブッシュ政権の本性をすでに看破していた朝鮮は、「反テロ戦争」の状況を見据えながら、必要な自衛的措置をとる準備を着実に進めていた。
3月初めの時点で、米国をはじめとする関係国に寧辺核施設で8000余本の使用済み燃料棒を再処理する作業が最終段階にあると中間通報した。イラク戦争勃発後、朝鮮が「抑止力を備えることを決心」したのであれば、それは使用済み燃料棒を再処理した結果物の用途が変わることを意味する。
7月にニューヨークで行われた朝米外交官の接触で再処理が既に完了したことが通知された。ホワイトハウスは、核兵器の材料となるプルルトニーウム抽出は「重大な問題」という見解を公に示さざるを得なかった。
朝鮮はすかさず外交攻勢を仕掛けた。回り道することなく、早急に北京で6者会談を開き、その枠の中で朝米2者会談を行うことを提案した。米国は自らが主張していた多国間対話の場に再び引き入れられた。
8月27日から29日まで行われた6者会談(朝鮮、米国、中国、ロシア、南朝鮮、日本)で、朝鮮は「米国の朝鮮敵視政策の放棄」対「朝鮮の核計画放棄」を目標として定め、そのためのすべての措置を一括して同時行動原則に基づき段階的に履行することを求めた。
中国とロシア、南朝鮮も核問題の平和的解決を促しながら、一括妥結と同時行動の方法をとることについて指摘した。日本は核問題よりも拉致問題などに執着した。
米国は、朝鮮が核兵器計画を完全かつ検証可能な方法で不可逆的に放棄(CVID)すれば、安全担保と経済協力問題に議論が可能になり、二国間関係を正常化するにはミサイル、通常兵器、人権などの問題も議論しなければならないという立場を譲らなかった。
朝鮮がイラクのように武装解除した後になってようやく米国は行動することができるという主張が、バグダッド陥落を目撃した各国代表の賛同を得られるはずがない。むしろそれは戦争抑制のために自衛的措置を取らざるを得ないという朝鮮の主張に正当性を与えるものであった。
「非核化実現のための核保有」
6者会談が成果なく終わってから6日後の9月4日、平壌で最高人民会議第11期第1回会議が開かれ、朝米間の核問題と関連して外務省がとった対外措置を承認することが全会一致で決定された。
核の軍事的利用が国の立法機関で承認された。
会議を実況中継した朝鮮中央テレビは、決定が採択された瞬間、壇上に座る最高指導者、金正日国防委委員会委員長の姿を映し続けた。朝鮮半島の非核化を先代の領袖、金日成主席の遺訓としてきた人民の世論が国の自主権と生存権を守るための核抑止力保有へ結集した瞬間であった。
8月の6者会談で朝鮮代表団の団長を務めた金永日外務次官は、朝米間の核問題解決に関する原則的立場を明らかにしていた。朝鮮半島の非核化は、我々の最終目標である、核兵器それ自体を持つことは我々の目標ではない、核問題が対話を通じて解決されるには米国の朝鮮敵視政策が根源的に変わらなければならないと主張した。
最高人民会議において決定が採択され、外務次官発言は国家の路線となり政策となった。正当防衛手段としての核抑止力は、朝鮮半島非核化の目標を達成するための手段、米国の強圧的な政策を転換させる現実的な力として規定された。
朝鮮を核先制攻撃の対象と定めた米国がイラクを侵攻した年に、朝鮮は「火は火で治める」という原理を核利用に関する政策に適用し敵国と対峙する決断を下した。
プルトニウムであれ、濃縮ウランであれ、何かを開発しているという「北朝鮮の核疑惑」は過去の出来事となり、米国は核保有国である朝鮮とつらく苦しい対決を続けることになった。
(金志永)