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〈本の紹介〉徐京植 評論集Ⅱ『詩の力 「東アジア」近代史の中で』を読む

2014年08月01日 15:19 文化・歴史

詩人とは沈黙しない人/言葉の力を取り戻す

「詩の力」とはストレートすぎるほどの表題であるが、そこにむしろ並みならぬ著者の思い入れを感じとる。単なる鑑賞対象としての詩・文学プロパーの話ではない。副題「『東アジア』近代史の中で」という、歴史的・政治的状況の中で、詩とは何か? そこにいかなる「力」があるのか? 詩の、言葉の、文学の役割とは何か? という、切実な問いかけが貫かれている。
船が沈没することをいち早く察知してまず船内のネズミたちが騒ぐように、社会が沈もうとする危機にはまず詩人が騒ぐという喩えがあるが、「詩人とは沈黙してはならない人」なのだ。そして「詩の力」とは「詩的想像力」のことだと著者はいう。想像力、他者への共感力が急速に衰退している一方、幼稚な自己中心主義的言説が人気を集め、教養の自壊、知性の敗北、そしてこの国の民主主義がまさしく「いとも軽々と安楽死」しつつある現実のなかで、不正義に対し沈黙しないこと、不正義や虚偽が支配しているからこそ、正義の何たるかを問い「ほんとうの声」をすくいとること。そんな言葉の力による詩的想像力、言葉を媒介した道徳性、モラルのありかたについて繰り返し語る。

高文研、03-3295-3415、2400円+税。

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これまで氏の著作から多くを学び、著書「子どもの涙」などからも氏の文学遍歴の一端については知るところもあった筆者だが、この本を通じ、著者の少年時代からの文学体験の軌跡をなぞりながら、あらためて日本の地で朝鮮人として生きる存在が抱えてきたテーマと苦しみ、そして言葉を介した、自己解放への希求と実践について考えさせられた。
とりわけ高校生時代に書かれた、南の「祖国」を訪問したことを契機とした精神の記録である詩集「八月」が全編収録されているが、その言葉の重さ、一句一句の鋭さ、濃密な感性に息をのむ。その基調となっている、「誰に語りかけるのか」「読者は誰なのか」「日本人にとって私の詩とは?」という「憂鬱」と、それでも「文学する」という行為の意味―どこかに共感してくれる人がきっといる、未知の読者に向かって語りかけること。そうした原点が、やがてエドワード・サイードの言葉を通じ、複数のアイデンティティー=自己分裂を抱えつつ「新しい普遍性」を希求し、そのための在日朝鮮人という立場から対抗的物語を提示していくことを自らの役割に課す思想と実践へと連続しているのである。
日本と東アジアの「出会い損ね」の歴史において、中野重治における魯迅との出会い方に、かすかな可能性と希望を見出さんと氏は語る(それが現在たとえ「消滅の瀬戸際」にあってもなお)。朝鮮学校中級部の日本語教科書にも収録されている魯迅作「故郷」における「希望」―「それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。日本でも有名かつしばしばナイーヴなポジティヴさで「誤読」されてしまうこの言葉を厳しく掘り下げつつ、敗北の歴史―少数者は常に負ける、効率や有効性では資本に負ける、技術の無い人間は負ける―の中から生み出されて、かつ絶えず敗者に力を与える言葉。勝算とは別の原理で、人間はこうあるべきだ、こうであることができる、こうありたい、と語り、それが人を動かす。それが詩の力、詩の働きなのだと、氏は「希な望み」に賭けて語るのである。
この絶望的な世界で、それでも「人が歩けば道はできる」のならば「まだ歩けるうちは歩くしかない」と言う著者の困難な歩み。私たち読者もまた、そうした歩みへと自己を促す「詩の力」を探しえるだろうか。――「時代は変わり、世の中は変わってしまったとしても、この社会に『疎外され傷ついた人々』が存在している以上、詩人の仕事は終わっていない。いまの時代が詩人たちに新しい詩を求めているはずだ」(著者)。
(李英哲・朝鮮大学校准教授)

 

 

 

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