創立60周年迎えた茨城朝鮮初中高/大切な学校、みんなで守る
2013年10月21日 15:50 民族教育茨城朝鮮初中高級学校が、今年で創立60周年を迎えた。同校の高級部には北関東、東北の中級部6校を卒業した生徒が在籍している。学区の面積が朝鮮学校一広い同校の存在意義は、地域を越えて育まれる生徒、卒業生たちの姿に映し出される。
「ウリハッキョ一の寄宿舎学校」
「この学校をこれからは一緒に支えて行きたい。3年間足を運び続けて今日初めてそう思えた」。
宮城県に住む任正淑さん(46)は、茨城初中高60周年記念式典(13日、同校)の舞台に立つ娘(高3)の姿を見ながら、そう胸のうちを明かした。東北朝鮮初中高級学校の高級部が休校になったのは09年。「娘を仕方なく茨城初中高に送った」が、母校を失った大きな喪失感の中で、任さんは長らく同校に愛着を持てずにいた。「だけど今日、舞台に立つ娘の顔を見て彼女がここで本当に心の許せる仲間たちと出会えたことを改めて知った。民族教育を続けてよかった、今は心からそう思える」。
「ウリハッキョ一の寄宿舎学校」
同校の特徴について学校関係者がしばしばそう口を揃えるのは、各地にある朝鮮学校の中で最もたくさんの寄宿生を受け入れているという理由ばかりではない。時代と共に同胞社会の様相がどれだけ変化しても、ここで育まれる生徒たちの絆に何ら変わりがないからだ。
記念式典の前日、多目的室からは大きな声が聞こえた。翌日の記念公演を成功させようと決起集会を行う朝高生たちのかけ声だ。
そんな中、高2のある女子生徒は仲間の前に立つなり声を詰まらせていた。
「明日に向けて伝えたいことはたくさんあるけど…たくさんの親友に囲まれて、自分は本当に幸せものだ。ウリハッキョでよかった」
せきを切ったように溢れ出る涙は、生徒たちがいかにこの学校を大切にしているのかを垣間見せた。
茨城初中高を拠点としたこうした強い繋がりは、2009年に始まった「セッピョル学園」に支えられてきた。東日本大震災による震災被害を乗り越え、絶え間なく続けられる中で、その取り組みの意義は広く同胞や保護者にも広まった。
群馬県に住む黄秀哲さん(48)は、迷いの中で同校の寄宿舎に子どもたちを送った。高崎に住む黄さん一家にとっては少し無理をすれば東京も通学圏内。しかし「『セッピョル学園』で会った友だちと一緒に勉強がしたい」という本人たちの希望を受け入れて寄宿舎に送る決意を固めたという。
「子どもたちは素朴で素直な子に育っている。会うたびに楽しそうに学校生活の話もしている。そんな姿を見て、この学校は北関東、東北の生徒たちが身を寄せ合う大切な場所なんだと感じている。だからこそ、この先も守っていかなければ」。
卒業生の力をひとつに集め
13日夕方、水戸京成ホテルは茨城初中高卒業生、関係者の姿で溢れ返っていた。
1953年の開校以来、はじめてとなる茨城初中高連合同窓会結成式の会場だ。
エントランスで卒業生たちを出迎えた連合同窓会実行委員会の李炳卓委員長(18期)は、人の波を嬉しそうに見つめていた。
「茨城朝高は学区がいくつも複雑に移り変わってきた歴史がある。だから卒業生も各地に散らばっていてなかなか集まりにくい。それぞれの地域に通いなれた初中級学校もあるだけに、朝高にたいする愛校心も希薄になりがちだった」。
「学校を永続的に守っていくために散らばった卒業生の力を結集する土台をつくろう」という一心で実行委は各地に足を運び、卒業生に地道に参加を呼びかけてきた。
そのかいあって同窓会には北海道から沖縄まで470余人が集まり、ロビーにまで人の輪が広がった。懐かしい顔ぶれに、あちらこちらで再会の歓喜の声が響いた。
「まさかお会いできると思いませんでした」。東京に住む李徳碩さん(59、16期卒)は会場の一角で約50年ぶりにあった恩師・朴京順さん(66)を固く抱きしめながら声を上げた。積年の懐かしさが込み上げ、涙が頬をつたった。
李さんは茨城初中高に初級部が併設される前、日本の小学校に通いながら授業後、民族学級で朴さんから朝鮮語を学んだ。「教室は小学校の横にある小屋みたいなところだったけど、自分にとってあの民族学級が唯一朝鮮人であることを感じられる場所だった。みんなで行った遠足も楽しくて仕方なかったことを今でも覚えている」
北海道に住む鄭玉貴さん(61、13期)は、会場の一角に設置されたスクリーンに映し出されたかつての学園生活の写真を見ながら思い出話にいっそう話を咲かせた。
「北海道から青函連絡船に乗り電車を乗り継いで学校に来たのが1967年。4階建て寄宿舎が立派でね。食堂は古かったけど、食堂のオモニたちが優しかった。週末になると、寄宿生が食堂に集まって朝鮮の映画をみたりフォークダンスを踊った」。
鄭さんはあの頃の寄宿舎が今はもうないことが少し寂しいと俯きながらも、「だけどあそこで培ってきた自負心みたいなものは今でも残っているかな。だから同胞社会を守るために頑張ろうと思えるんだと思う。この学校があったから今の自分があるんだなって、今日改めてそう感じた」と微笑んだ。
この日、同窓会の終わった後も、卒業生たちはそれぞれ世代別に集まり、夜遅くまで語り合い共に過ごす時間を楽しんでいた。
連合同窓会では今後年に1度の会報発行、期別責任者を通じた情報交換などを通じて、広く卒業生を束ねていく活動を行っていくという。李炳卓委員長は「こうした流れを着実に生徒数増加につなげていきたい」と意気込みを話した。
(周未來)