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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 52〉犬畜生にこの口は塞げまい/倭兵を一喝する高興柳氏

2013年06月05日 10:09 文化・歴史

敵兵にひるまず

壬辰倭乱、丁酉再乱の混乱のさなか、夫と共に倭兵に抗いその命を呈して戦った女性たちがいた。彼女らは義勇兵を組織した夫を支え、家族を守り、危機に瀕してもその節を曲げず最期まで気高く、勇敢であったという。

朝鮮の儒学を代表する学者のひとりであり、徐敬德(ソ・ギョンドク)、李滉(リ・ファン)、李珥(リ・イ)、李震相(リ・ジンサン)、任聖周(イム・ソンジュ)と共に性理学の6大家と称される奇正鎭(キ・ジョンジン、1798~1876)は、その著書「盧沙先生文集巻之二十三、淑夫人柳氏旌閭移建記」に次のように書き残している。

高興柳氏 忠烈閣

「萬暦丁酉(1597年)倭奴が再侵し稷山を占領、南方に押し寄せ路上で人を放埓に殺害した。公(柳氏の夫である李許樑<リ・ホリャン>)が憤慨し倭兵を避けることをせず、村の若者を集め賊を防ぎ殲滅すべく待ち伏せた。始めに賊を数十人殺したが、最後には倭兵が大挙押し寄せたので防ぎきれず、遂には殺害されてしまった。そのとき夫人は、包囲され倭兵に襲われそうになりながらも大声で言った。『義に命を捧げた男あり。節に命を捧げる女がいないと思うのか。犬畜生にこの口は塞げまい』。ついに共に絶命した。家童が二人の遺体を見つけ縣の東、佛覺山に埋葬した。墓の上に太陽を横切って青白い気が消えず、地域の人々はその怪異にため息をついた。<中略>旌閭の命を下した。男でも、生きるのも、死ぬのも困難であるのに、ましてや婦人の身で。これが、朝廷で旌門と褒美を取らせる所以である」(萬暦丁酉、倭奴再突、覆於稷山、奔而南、沿路恣殺害、公憤忿、不爲避賊計、團結閭里少年、期於遮截剿戮、始也殺數十賊、而末以賊勢浸大、不能支、遂偶害、夫人時在圍中、賊欲進劫之、夫人大曰、有死義之男子、豈無死節之女子乎、斥以犬羊不絶口、遂併命、家僮収二屍體、葬于縣東佛覺山、墓上有靑白氣經日不散、土人嗟異焉。<中略>有旌閭之命、非死爲難、處死爲難、男子猶然、况於婦人乎、此朝家所以旌贈而褒美之也)

高興柳氏 忠烈碑

儒教的人間像

旌閭(チョンリョ)とは、国家がその価値と美を認めた行いを推奨するために、忠臣や孝子、烈女、烈婦が住む村に旌門(チョンムン)を建て表彰することを指す。「旌」の文字は元来旗を意味し、「閭」の文字は村を意味する。旌門は別名紅門(ホンムン)、ホンサルムンと呼ばれ、この門には「忠」、「孝」、「烈」の内のひと文字を刻みその行いの表彰の種類を明示しつつ、その名や職分を刻んだ。

封建時代の王は儒教的に正しいとされる行いを世に知らしめ、その徳を賛美、道徳的に成熟した儒教社会成立のため旌表政策を打ち出し積極的にこれを利用した。

朝鮮王朝時代に発達したこのような旌表政策は一見成功し、表彰された多様な事例は多くの人々を感動させ、儒教的人間像の確立に重要な役割を果たしたといえる。だが、時代が下るにつれて旌閭は本来の意味を徐々に失い形骸化、家門の発展を女性の犠牲の上に達成するという残酷な風潮を生むことになる。夫の死の理由の如何にかかわらず、妻に後を追うことを余儀なくさせたのだ。

柳氏夫人は戦死した夫の後を追う追従型の「烈女」ではなく、倭兵に包囲され降服することを強要されたにも関わらず、「お前たちの刃の露と消えようとも決して降伏はしない」と叫んだと野史にもある通り、夫李許樑と同じく誇り高い愛国者であったことがうかがえる。

命の瀬戸際に、ひるまず敵兵を一喝し、自らの死のみならず夫の死の意味―「烈」と「忠」を高らかに叫んだのだ。見事である。さぞかし倭兵も驚いたことだろう。いや、恐れたに違いない。彼女の遺体はわざわざ三分割に切断されていたというのだから。

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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