〈歌舞団の舞台裏 2〉京都朝鮮歌舞団(下)
2013年05月24日 10:22 文化・歴史「うちのカムダンすごいねんで!」/プライド、葛藤の壁乗り越え
京都朝鮮歌舞団は、1965年9月5日に結成された。在日本朝鮮人京都文宣団が68年に改称され、今に至る。その前身は「ポドゥナムサークル」(61年)。
「歌舞団はもともと、ある行事の舞台に出演するといったBGMのような存在ではなく、歌舞団単独の公演で地域を回るのが基本スタイルだった」。そう話すのは、70年に入団し、85~07まで同歌舞団の団長を務めた具用九顧問。総聯で新たな方針などが発表されると、すぐさま脚本を書きおろし、時代を反映した作品を披露することで同胞たちに知らせる「宣伝隊」の役割としての存在も、今とはまた少し違った性格であったという。
73年には万寿台芸術団が来日、革命歌劇「花を売る乙女」は爆発的な人気を呼び、同胞たちの祖国への愛おしさ、朝鮮文化に対する憧れがあふれんばかりに膨らんでいった時代。同胞全体の民族への愛着がいっそう高まっていった。その翌年には日本各地の歌舞団(選抜)と中央芸術団(金剛山歌劇団の前身)が朝鮮を訪問し、歌劇「金剛山の歌」を習得、金日成主席の前でも公演した。のちに日本でも各地で公演し、大盛況となった。
具さんもその代表団の一員として祖国訪問。公演後、主席と握手する機会に恵まれ、そのとき記念でもらった腕時計は今でも大切に保管しているという。「あのとき主席に直接公演を見ていただき、『よくできていた』とのお言葉もいただいた。あのときの喜びと感動は今でも忘れられない。その思い出を胸に、どんなにつらいことがあっても40年間続けることができた」と述懐した。
京都朝鮮歌舞団48年の歴史の中で同胞社会の形態はずいぶんと変化した。もちろん、具顧問と現在の歌舞団員たちの現状も違う。
「時代と共に変化する同胞社会に何をどう伝えるか。今の歌舞団はそれが一番難しいと思う」
86年に入団し17年間同歌舞団に在籍していた朴貞任さん(46)はそう話す。朴さんもかつてその悩みにぶつかった一人だった。特に02年の拉致問題以降は祖国、民族、組織を守る運動の中で模索する日々だったという。「それでもずっと私たちを愛してくれる同胞たちがいた。当時を思うと今も胸が熱くなる。以前、日朝友好の収穫祭が行われた田んぼの中で公演したことあった。足も衣装も泥と傷だらけになったが、『そこが舞台だ』といわれたらやってみせるモチベーション。それが歌舞団のプライド」。
夢と現実の差
すっかり日が落ちたある夜、事務所でパソコンを見つめながら険しい顔をする団長の姿があった。「司会の原稿が全然進まなくて…」。本番まであと3、4日。原稿を覚え、さらに磨きをかけることを考えるとあまり時間がない。
「こんなに原稿がはかどらないのははじめて。観客は同胞だけじゃない。自分たちの歴史を伝えたいけど、押しつけるようにはしたくない。みんなで理解しあって、手をつないでいきたい。そのその思いを伝えたいんだ」
当日が近づくにつれ、団員たちの張り詰めた緊張感がひしひしと伝わってくる。18日の夜。練習場では最後の通し練習が行われていた。昨日の課題をクリアできなかったり小さなミスがあると逃さず指摘する団長。ときには厳しくしかりつけることも。団員にどう思われるかよりも、公演を成功せることがより大切だからだ。
この日、団長に叱責された志紅さんはこらえきれず涙した。落ち込んだ表情の志紅さん。入団してほんの2週間。夢と現実の差を目の当たりにしていた。
団長の指摘を受け入れられず、反発時期もあったと明姫さんは話す。
高級部時代、在日朝鮮学生中央芸術コンクールでは独唱で優秀作品に輝き、大学も優秀な成績で卒業した。常にそのプライドが先立っていたが、「結局自分は何もわかっていなかった。自分の小さなプライドが自らの成長を妨げていたことにやっと気づいた。自分が歌いたい歌じゃなく、同胞が聴きたい歌を歌えるようにもっと頑張らないと」そう力強く話す明姫さんだった。
芸の道は常に美しく輝いているように見えるが、その舞台裏は決して生ぬるいものではない。その過程をくぐりぬくことができる人こそが本物のアーティストなのだと、団長はキッパリ話す。「特に志紅は入ってきたばかりなのに一から教えてあげられずに申し訳ない。他の団員らも、つらい中でも頑張っている姿が私にとっては励みであり希望だ」とも。
「朝鮮の歌はやっぱり朝鮮人にしか歌えないと思っている」と志紅さん。高級部卒業後、2年間保育士になるため専門学校に通った。はじめて日本の社会に出て同胞コミュニティーの温かさ、なによりも「歌が好き」という自分の思いに気づき、同歌舞団に入団。右も左もわからない状態の中、大舞台に立った新人の胸中はいかほどか。それでも公演後、「やっと自分は歌舞団なんだという実感がわいた」と話す志紅さんの笑顔に安どする思いだった。
朴玉希さんは、京都朝鮮歌舞団の中で唯一兵庫・姫路出身。家族を離れて一人暮らしを続けている。玉希さんの姉もかつて兵庫朝鮮歌舞団の一員だったが、諸事情で退団せざるを得なかった。「はじめは一人でつらいことも多かったが、その都度背中を押してくれるのが姉だった。姉の夢を自分が叶えるためにも、つらくてもあきらめるわけにはいかない」。
それぞれの思いや葛藤を抱えながらも、「同胞がいる場所ならどこへでも駆けつける」という共通のモットーを掲げてひた走る団員たち。 「『うちのカムダンすごいねんで!』なんていわれるような、同胞たちの自慢の歌舞団になれるようもっともっと鍛錬していきたい。日本のどこでも通用するようなアーティストになることが、すなわち在日朝鮮人の地位向上につながると信じている」と話す表情から、京都同胞社会の未来を担う強い信念が垣間見えた。(尹梨奈、終わり)
(朝鮮新報)
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