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【寄稿】「ウリハッキョ」と呼ばれる意味/外村大・東京大学大学院総合文化研究科准教授

2013年01月29日 17:50 民族教育

朝鮮学校について何かを考えたり語ったりする際に、ふまえておくべき重要な点として、学校とそこに通う生徒と卒業生、その父母らとの関係や思いといった、多くの日本人にはなかなか想像できないことがあるのではないか。私自身は朝鮮学校で学んだ経験もないし、家族の誰かが朝鮮学校に通ったということもないが、在日朝鮮人についての歴史を多少学んできた者としてそのように考える。

もちろん、朝鮮人であれ日本人であれ、自分が通った学校に誇りを持ち、愛着を感じている人は少なくないだろう。多感な時期をともに過ごした友人たちをその後も懐かしく思い出したり世話になった先生たちへの感謝を感じたりするのは当たり前のことではある。

しかし自分や自分たちの祖父母や親きょうだいが、資金、資材、労働力を提供しながら建設していった学校に通うという日本人は、おそらくいたとしても少数で特別な存在だろう。

だが朝鮮学校は、いまそこに通っている子どもたちに連なる身近な朝鮮人が自分たちの力を合わせて建設した学校である。しかも戦後まもない、日本全体がそう豊かであったわけではなく、したがって一般的な在日朝鮮人の生活もそう楽ではなかったにもかかわらず、朝鮮学校は作られた。言うまでもなく、在日朝鮮人が民族教育に力を注いだことには、植民地統治下において自分たちの言葉と歴史・文化を教える機会を奪われていたという辛い経験が影響している。

さらに言えば、日本の行政当局の施策としてはその維持を脅かすようなことはあっても、ほとんど援助は受けてこなかったわけであり、学校運営に保護者が関わる度合いも一般の日本学校とは相当違っているはずである。備品の購入にせよ、学校行事にせよ、保護者が学校側に任せきりで運営するというような状態ではなかったと推測する。

朝鮮学校の生徒や卒業生、その父母らは朝鮮学校のことを「ウリハッキョ」と呼ぶ。これを日本語に訳せば「私たちの学校」となる。しかし右のような事情を踏まえるならば、「ウリハッキョ」という際の言葉のニュアンスは、日本人が自分の通う学校や出身校を「私たちの学校」という場合とは異なることがわかる。そこには、自分たちと自分たちに近しい人々が学校を大切にしてきた歴史や民族教育を重視してきた思いが込められているのである。

今回、文部科学省はそうした朝鮮学校をいわゆる「高校無償化」施策から除外するためにわざわざ省令を変えようとするとしている。もちろん、何か正当な理由があるとすれば、(加えて国際的な人権の基準を無視すれば)、日本の行政当局がそうした措置を取り得るのであろう。しかし、私の知る限りではなんら納得しうるような理由は提示されていない。

文部科学大臣はこの措置に関連して「拉致問題の進展がない」「朝鮮学校が朝鮮総聯と密接な関係を持つ」ことに言及したようである。だが拉致問題と文教行政がどう関連しているのか、朝鮮総聯と朝鮮学校とが密接な関係にある(それ自体は何も隠されていることでもない)ことがなぜ問題とされるのか、一切説明されていないこと、そしてそのことがほとんど問題にされていないことは大変奇妙である。

そうした奇妙な状態のまま省令の変更が行われるとすれば、朝鮮学校に対して日本政府は悪意をもって対応していると受け止められてもしかたないだろう。そのことは、朝鮮学校の関係者が願い、大切にしてきたことを踏みにじることを意味するのではないだろうか。

(朝鮮新報)

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