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求められる歴史認識の大切さ/「風を撮る」-洛中の「耳塚」を通して-前田憲二

2012年12月07日 17:52 文化・歴史

2008年6月3日(火)午後、生まれて初めて平壌空港に足を下ろした。長編記録映画「月下の侵略者」撮影のためである。テーマは、洛中の「耳塚」とは、つまり壬辰倭乱。

空港で一瞬、空気がうまいと思った。低予算のロケなのでスタッフは4人。コーディネーター3人が出迎えてくれる。

※現在NPO法人ハヌルハウスでは「月下の侵略者」DVD発売中。
二枚組み 9,000円。TEL 03-5996-9426 FAX 03-5996-9428

朝鮮の歴史と現在

現実の朝鮮民主主義人民共和国とはどんな国なのか、それは時間の経過と共に実感できるだろう。私は、400年以前に、秀吉によってされたその現場に立つことで、当時の臨場感を通して映像を、どのように観客に伝えることができるか、そのことを真剣に考えた。

それは「風」を撮ることだった。大同江の流れ、平壌城跡の石壁、そこに巣くう栗鼠。

丘陵と樹木。人々の暮らしの声。それらから立ち上る侵略の足音、叛乱、驚怖、劓(はなきり)、悲鳴等々は大地を渉る風が教えてくれる。

その上、古朝鮮、高句麗の都としての繁栄までが胸になぜか迫ってくる。自然は歴史を記憶しているのだ。

古代ギリシャの哲学者ゼノンが編み出したとされるアナーキズムや、中国、春秋時代の思想家・孔子がもたらした「仁」を理想の道徳とする。その思考の片鱗が秀吉に見え隠れすれば、まだしもだが、秀吉の侵略の構図は、己の利益だけの狂乱、悪辣などの非道を赤裸々にしている。

壬辰倭乱時、平壌において松雲大師(ソンウンテサ)(四溟堂サミョンダン)は、僧徒を団結し義兵隊を組織。各地に転戦し倭軍の加藤清正と3回の和平交渉を行っている。ロケクルーは、松雲大師の足跡を追い、朝鮮北部・平安道に位置する妙香山麓の普賢寺に入った。なんと、美しいことか、風もやさしい。そこには花々が咲き乱れ、樹木は唄い、小鳥のさえずりが軀の中に浸透してくる。ともすれば朝鮮というイメージは、マスコミの言論によって、鋼鉄、束縛、蹂躪というイメージが付きまとうが、それはとんでもない間違いだ。どこの国にだって様々な社会問題を抱えている。空気がうまいのは、確かに車が少ない、産業が少ない、それが原因かもしれない。普賢寺への道中では、我々は車だが、朝鮮の人々はそのほとんどが徒歩で寡黙であった。でもその寡黙さには逞しさがあった。大地の上を、荷を背負って黙々と働き歩いているのだ。

普賢寺で、松雲大師についてをマイクに向かって朗々と語る若き僧侶の声は、山肌に木霊していた。私は若い時代に「日本の祭り」「日本の奇祭」等々、250本ばかりのテレビ作品を撮ってきた。日本の津々浦々を這うようにして番組を構成演出した。だがそこから見え、追ってきたのは、高句麗、百済、新羅の朝鮮三国と伽耶の遺跡であり文化だった。

日本列島の「今」という時代はどのようにして構成されてきたのか、そのことに愕然とした。列島は島国である。でも海岸線は、朝鮮の清津から朝鮮半島を一周し、遼東半島から渤海、黄海に至り、山東半島の青島までの距離よりも遥かに長いのだ。つまりそのことは、日本各地には各様の風土や文化が根付き、言語、習慣、歴史などが異なっている。

文化が混淆する日本列島

渡来文化も朝鮮半島だけでなく、南アジア、インドネシアの影響の大である。もちろん、シベリアからのツングース族の渡来があり、列島縄文人の存在も見逃すことはできない。

つまり日本列島は、様々な文化が混淆(こんこう)することでじわじわ成立し、時には残虐な殺戮を繰り返す中で、北海道と九州を含む列島全体が日本と呼称されるようになったのは、秀吉の時代であった。北海道、千島、樺太は明治以前までは蝦夷地であった。私たちは意識の底で日本の存在は「記紀」に示されるように神代から教えられ、そのことを正当と受け止めてきた。私は、列島各地を細々とロケすることで、その内実、嘘と本音が凝視できるようになった。

日本列島は、あらゆる国々の渡来文化の吹き溜り文化圏であるということがつくづく納得できた。それがため長編記録映画「神々の履歴書」、「土俗の乱声」、「恨、芸能曼陀羅」、「百萬人の身世打鈴」、そして歴史認識を正当化するため洛中の「耳塚」(鼻塚)をテーマに「月下の侵略者ーー文禄、慶長の役と『耳塚』」などを完成させたのだった。

秀吉の死後、松雲大師は1605年、国書を持って京都に入り、徳川家康と会い、国交回復に尽力。1,600人の捕虜を引き連れ帰国した。京都の「耳塚」には朝鮮人の鼻が16万以上入っているとされる。歴史認識の大切さが求められている。

(映画監督 NPO法人 ハヌルハウス代表理事)

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