「詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への『道』」を読む(下)/中野敏男著
2012年08月11日 10:05 歴史内向きの「優しさ」と他者への「否認と暴力」
北原白秋が詩歌・童謡にこめた、日本人の本質としての「郷愁」と「童心」―それは、関東大震災前後の、広範な民衆を巻き込んで海を越えていった植民地主義と大規模な移動・「移住」の時代にあって、これらの抒情が切実に感じられる状況があったからこそのものであった。「さすらひの唄」「流浪の旅」など当時の流行歌に、植民地へと赴く「その不安な心情を仮託して歌い、郷愁をかき立てる詩歌曲の抒情に慰めを求め」、他方で「やがて立ちふさがる他者への不信や敵意につながり、この他者への蔑視や偏見を生み出し、それがまた倒錯した被害者意識にも結びついて、その極限では攻撃的な暴力として爆発して」いく。このようにして本書は、詩歌曲の抒情への関心と民衆の植民地主義との照応関係をあぶりだす。「要するに、童心が本来持っていたはずの母や自然への優しい思慕を想起し、自分(たち、日本人)はもともとこうだったのだと確認すること、そうすることによって、その「外部」と接触して傷ついた心はあらためて安心できる場を見出し、癒されていくというわけです」。
戦争の中核的な担い手を育んで
民衆の心情に入り込んだ植民地主義は、たとえばまた「赤い靴」と「馬賊の唄」(いずれも1922年)という2つの流行歌が見せる分裂となって現れる。「赤い靴 はいてた 女の子」が「異人さんに つれられて 行っちゃった」という、西洋に女性を強奪される人種主義的な心理コンプレックスと、「支那」を征服する「誠の男の子」を歌う後者の荒唐無稽な他者支配のロマンとが交錯している。日本の「優しい」心を歌う一方、植民地・人種・性のイメージを歌っていた子どもたちが、やがて1930年代、総力戦が本格化する時期に成人し、戦争の中核的な担い手となっていったのだ。
そして関東大震災の経験は、内向きの「優しさ」と他者への「否認と暴力」あるいはコンプレックスが表裏をなしつつ、日本人のナショナリズムをより明確に醸成していく。「日本の」被害、国家・国土・国民の危機として大震災を受け止め、「国難」に対処するためには上からの押しつけの国家主義ではなく民衆に「内在」する「愛郷心」を育てねばならない―まさにこのようにして白秋は詩歌を創作し、当時の民衆は歌を求め、「国民歌謡」によって「絆」を深めるべく、当時の新民謡運動へ、さらには詩歌翼賛へとこぞって参加したのだった。
そして民衆の歌への要求は、民衆の組織的な暴力として朝鮮人を虐殺した「自警団」の経験が、震災後町内の自治を自発的に強化する町内会出生の秘密ともつながっていることを、本書は「震災後の社会変化の核心」として描き出す。「自警」という暴力の経験と記憶が、近隣関係を緊密化・平準化させ日常的相互監視の集団規律として作動し、それは防空防災の総力戦体制、「隣組」という包括的な国民再組織へとつながっていく。上からの統合と制度化が、このような民衆の「自発的な統合」と相互連携しながら、日本のファシズムは形成されたのである。童謡、大衆歌謡、校歌、社歌を歌いながら、他者排除と侵略の暴力をふるい、戦争翼賛体制へとまい進していった日本人。歌と暴力は、決して別物ではなかったのだ。
ナショナリズムと名曲「この道」
当時の詩歌を担った白秋その人は、1925年の摂政裕仁(当時)の北海道・樺太旅行の後を追うように同地を訪れた後、「明治天皇頌歌」「建国歌」を作り、同時に、名作と呼ばれる「この道」を作ったのだった。関東大震災に襲われた1920年代、普通は「平和な戦間期」で「大衆文化」と「デモクラシー」が花開いた時代とみなされるこの時期にこそ、民衆の心情の深部にナショナリズムが本質的に根付き、来るべき総力戦期の国民精神総動員に向かう精神的な基盤が作られていった」という本書の指摘は、朝鮮人大虐殺を引き起こした日本人民衆の心情のメカニズムについて考えさせる。だがそれだけではない。敗戦後「リンゴの唄」を歌って戦争を忘れた日本人……そして今日、3.11後の「がんばれニッポン」だけが合唱され続け、最近では世界的に有名なアーティストが白秋の詩歌を優しい、懐かしい「日本の心」として思い出し再び皆で歌い合おうと呼びかけた。何よりその裏で朝鮮人が依然差別されたまま放置、排除されている、戦前戦後から今日に連綿と続く状況、それを支えている今日の日本人の心情の基底をこそ、本書はアクチュアルに照射している。
(李英哲・朝鮮大学校外国語学部准教授)