〈ハングルの旅 14〉児童文学の先駆者、方定煥
2012年06月22日 11:04 歴史「어린이(オリニ・子ども)」という言葉を作った人物
方定煥(1899~1931)は、32歳という若さでこの世を去るまで、子どもたちの幸福のために尽力した児童運動家であると同時に、朝鮮の児童文学の先駆者である。短い生涯であったが、彼を除いて朝鮮の児童文学を語ることはできない。彼は、子どもの人格を尊重し、子どもたちを社会の大切な存在として認めさせるためのさまざまな社会運動を展開した。そして、子どもたちの心に愛、涙、勇気、喜びを与えるための童話、小説、詩などの創作を通じて朝鮮の児童文学を確立させようと心血を注いだ。
方定煥は、1899年ソウルで商人の家の長男として生まれた。幼年期は絵を描いたり作文を書いたりしながら過ごした。8歳の時、父の事業の失敗で彼の家が破産し、この時から貧しい子ども時代を送ることになる。1908年9歳の時、近所の子どもたちを集めて「少年立志会」という会を組織し、童話口演や討論会、演説会などの活動をした。1914年に、家計を助けるために善隣商業学校に入り商業を勉強するが、翌年には家庭の事情で中退した。読書好きで文才のあった彼は、この時期に李光洙が発行していた雑誌「青春」に、少年問題を扱った作品を投稿し掲載されたりした。1917年19歳の時、知人の紹介で天道教教祖であり独立運動家である孫秉熙(1861~1922)に気に入られ、その三女と結婚するが、これが彼の人生の転機になった。
彼は1919年末に日本に渡り、東京の東洋大学の哲学科で、児童文学と児童心理学を勉強した。この日本留学時代から朝鮮の児童のための児童文化運動を始めた。彼は、日本で本格的な童話の翻訳を始めた。
1921年にソウルで「天道教少年団」を組織した彼は、子どもたちに丁寧語を用いるなど児童重視思想を深めながら本格的な少年運動を展開した。また、親の精神的自覚を促すために全国を回りながら講演をする一方で、1922年に「アンデルセン童話」「グリム童話」「アラビアンナイト」の中から選んだいくつかの作品を訳して、世界名作童話集である「愛の贈り物」を翻案、出版した。この童話集がハングルで書かれた最初の童話集で、創作童話の土台になった。
1923年には、朝鮮で最初の児童雑誌である「嬢鍵戚」を発刊した。「嬢鍵戚」誌は1923年に創刊され、1934年7月に通巻122号で発刊停止された児童雑誌で、昔話式の童話や唱歌調の童謡から脱却して創作童話と童謡を積極的に普及した。彼は「嬢鍵戚」誌を通じて、虐げられた子どもたち、貧しさで笑いを失った子どもたちと悲しみを共にし、逆境を克服するための知恵を授けた。
方定煥は、またその年の5月2日に「嬢鍵戚劾(こどもの日)」を制定し、「オリニの日」 運動を朝鮮の社会に普及させるために努力した。1925年の「オリニの日」の記念行事には全国の少年少女が30万人も参加した。しかし、日本の総督府の民族抹殺政策によって1939年に一時中断されたこともあった。「嬢鍵戚」という単語は、この時、方定煥によって初めて作られ使われた言葉である。
彼はさまざまな大会、講演会、講習会を開催しながら、子どもたちに夢と希望を抱かせるために、さまざまな児童文学作品を10余りのペンネームを使って発表した。
1928年頃から雑誌や童話の巡礼講演をしながら各地を歩き回った。当時、彼の童話は全国的に知れ渡っていたので子どもはもちろん、大人も集まってきて方定煥の童話と講演に耳を傾けた。彼の話があまりにも面白いので壱巷重(ゴム靴)におしっこをもらして席を離れなかった子どもまでいたと言う。
1923年5月1日、「オリニの日」に出したビラの「オリニの日の約束」という文章の中で方定煥は次のように訴えた。
「…子どもは大人よりもっと大切に扱いなさい。大人が根なら子どもは芽です。根が根本だからと上に居座って芽を押さえつけると、その木は死んでしまいます。根が芽を育ててこそ、その木は大きくなるのです」
方定煥の代表作には小説「万年シャツ」、童話「兄弟星」、童謡「コオロギ」、エッセイ「子どもの賛美」など多数ある。
1931年、彼は10余年の少年運動による精神的疲労と肉体的過労から腎炎になり、それによる高血圧で32歳という若さでこの世を去った。「オリニたちをどうする?」。これが方定煥の最後の言葉だった。短い生涯であったが、初志一貫、子どもたちを愛し、子どもたちの未来のために一生を捧げた人物であった。
(朴宰秀、朝鮮大学校朝鮮語研究所所長)