〈ハングルの旅 9〉時調はどのように書かれたか?
2011年11月11日 13:29 文化・歴史鄭夢周の肖像画
時調とは初章・中章・終章の三章六句からなり、各句は3.4もしくは4.4の音節を持つ、総数45程度の文字から構成される定型詩歌を言う。時調の起源についてはいくつかの説があるが、高麗歌謡変容説が最も有力視されている。12世紀から13世紀にかけて今日のような詩形に定着したものと考えられるので、時調は実に800年近い歴史を持つ朝鮮の文学ジャンルということになる。
時調はハングルで書かれている。それでは、ハングル創製以前の時調はどのように書かれたのだろうか?
次の時調は、高麗王朝に節を貫き、李成桂(朝鮮王朝の初代王)と李芳遠(李成桂の五男・三代王)の懐柔を拒んで暗殺された高麗の遺臣鄭夢周の「丹心歌」である。
此身死了死了 一百番更死了
白骨爲塵土 魂魄有也無
向主一片丹心 寧有改理也歟
漢訳されたこの時調は、沈光世(1577~1624)の「海東楽府」(1617)に収録されている。しかしこれを「차신사료사료 일백번갱사료(チャシンサリョサリョ イルベッポンケンサリョ」と漢字音で詠んだとすれば時調の3.4または4.4の音節を持つ、総数45字程度の定型詩歌とは程遠いものになる。すると漢字音で詠んだものではないということになろう。では、この漢訳詩は何をもとに書かれたのだろうか?
それは口伝である。ハングルの創製以前に朝鮮語でうたわれていた時調がまず漢訳されて表記されたが、ハングルの創製により時調としての本来の形で表記されるようになった。つまり、創作後、まず次のように口伝でうたわれる。
이 몸이 죽어죽어 일백번 고쳐죽어
백골이 진토되여 넋이라도 있고없고
님 향한 일편단심이야 가실줄이 있으랴
この身 死に死にて 百たび死して
白骨 塵となり 魂もまた消ゆとも
君に 捧げし一片丹心 変わることあらんや
それが前記したように漢訳され、その後口伝通りハングルで表記されたということである。すなわち「創作→口伝→漢訳表記→ハングル表記」という過程を経て時調は記録された。
ハングルによる時調の創作が盛んになるのは16世紀以降である。宋純(1493~1583)と黄真伊(16世紀前半~半ば)が時調作家として登場する以前はどちらかと言えば、漢詩が主でハングルによる詩作は疎んじられていた。それが宋純、黄真伊以後、ハングルによる時調や歌詞文学が勃興しはじめた。「関東別曲」などの詩賦を作った文人鄭澈(1536~1593)や朴仁老(1561~1642)などすぐれた詩人が現れ、中世文学の黄金期を築くことになる。
これまで漢詩のみを大宗としてきた儒学者たちが、ハングルで詩を書くに至ったのは大きな変化であった。これについて朱子学の大家として知られる李退渓(1501~1570)は時調「陶山十二曲」の序文で、「およそ性情に感ずるところがあれば、それは必ず詩として現れる。ところが今の詩(漢詩のこと)は昔の詩と異なってよむことはできてもうたうことはできない。もしこれをうたうとすれば、どうしても我々のことばで書かなければならない」と言った。
儒学者たちのこのような考えの変化は、その後の国文学の発展に大きく寄与したばかりでなく、ハングルによる文学の隆盛に少なからぬ影響を与えた。
時調集には「青丘永言」(1728)、「海東歌謡」(1763)、「歌曲源流」(1876)などがある。
(朴宰秀、朝鮮大学校朝鮮語研究所所長)