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〈遺骨は叫ぶ 25〉青森・大湊海軍警備府

2009年04月06日 00:00 歴史

手作業でドック建設、20余人が死亡/帰国時「浮島丸」に乗船、犠牲者多数

「浮島丸」が出航した大湊港。むつ市には「浮島丸」を伝えるものはない

「浮島丸」が出航した大湊港。むつ市には「浮島丸」を伝えるものはない

本州の最北端、青森県下北半島は、マサカリの形に似ているので、マサカリ半島とも呼ばれている。また、下北半島には毎年のように冷たい霧まじりのヤマセ(偏東風)が襲い、農作物が被害を受けるので、青森県内では最も冷害が多発するところでもある。

アジア太平洋戦争の時には、下北半島には北方警備を行う大湊海軍警備府が大湊町(現むつ市)に置かれていた。大湊海軍警備府は、開戦時には約6500人(軍属を含む)の兵員を擁していた。

開戦当初は破竹の進撃を進めてきた日本海軍も、1942年6月のミッドウェー海戦の惨敗から形勢が悪くなった。大湊海軍警備府の担当区域である北方領域も、1943年5月にアッツ島守備軍の玉砕を受けて、北方の国防ラインが千島列島に後退した。レイテ決戦の失敗、フィリピンの喪失と戦況はいっそう悪化し、大本営は、1945年1月に米軍の上陸を想定した本土決戦体制を発令した。

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