〈朝鮮史から民族を考える 28〉歴史教科書問題(下)
2008年11月10日 00:00 歴史統一時代、共通の歴史認識を
東アジア共通の歴史教材
現在、日・「韓」、あるいは日・「韓」・中のいくつかの民間グループでは、日本の歴史教科書記述の誤りを正していくとともに、自国史中心的な歴史観を脱し東アジア共通の歴史認識を探ろうとする問題意識で共同研究に取り組んでいる。これまでその成果として「未来をひらく歴史-東アジア3国の近現代史」(高文研、05年)などいくつかの教材が刊行された。こうした背景には、ドイツ・ポーランド教科書対話、ドイツ・フランス教科書対話の経験に学びつつ、アジア諸国の民間グループが対話を重ねてきた結果、日本とアジアとの歴史認識の溝が「もはや国家間の問題という枠組みを大きく越えて、アジア民衆の間の問題になっている」(石山久男・歴史教育者協議会会長)ことがある。つまり、歴史教育の主体が国家レベルから民衆レベルに降りてきているということであり、それはある意味で、民衆一人ひとりの歴史認識がこれまで以上に問われる時代が到来しつつあることを意味している。
しかし、東アジア共通の歴史認識を獲得するということはそれほど容易なことではない。上記の教材も試行錯誤を重ね、やっと入り口に立ったといえる段階であろう。それでは東アジア共通の歴史認識を深めていくためにはどのような方法論的問題が提起されるのだろうか。そのひとつとして最近指摘されていることは、「東アジア」世界論を参照しつつ、「東アジア」を地域的な領域としてではなく、自らの歴史認識を検証する場としての概念と考えることによって、互いの歴史認識の共有化が可能ではないかということである。つまり、われわれが最大公約数として共有している文化(文語文は漢字、中国的な人名地名の定着、家族制度も中国的な宗族制度など)がどのように共有されるに至り、それを基盤にしながら独自の世界がそれぞれ誕生していったかという、共通性と特殊性がなんとか描けないものかということである。ここで留意すべきは、東アジア各地域における特殊性が、近世以降に、東アジア共通の基盤のなかから形作られていったという点である。