〈人物で見る朝鮮科学史 59〉ハングルと死六臣(2)
2008年06月13日 00:00 歴史解説本「訓民正音」
世宗時代の科学技術官庁ともいえる集賢殿には30人ほどの学士がいたが、そのなかの多くは漢文を崇高なものと考え新しい文字の創製には反対の立場をとっていた。そこで世宗の命を受け、若い学者たちを率いてこの事業に取り組んだのが鄭麟趾である。
1396年に生まれた鄭麟趾は、1411年に文科の初級試験に首席で合格、中央政府の官職に就き、1425年に集賢殿の責任者の一人である「直提学」となった。1427年には文科の高級試験にまたも首席合格、その優れた才能は広く知られた。暦書作成のために中国の「授時暦」を習得した鄭招が自身の共同研究者として指名したのも鄭麟趾で、彼らが1431年に「七政算・内編」を完成させたことは以前に述べたとおりである。また、鄭麟趾は金宗端とともに「高麗史」の編さんにも携わるが、武人として名をはせた金宗端と学者肌の鄭麟趾との関係はあまり良好ではなく、これが後に彼らの運命を大きく変えることになる。