〈遥かなる高麗への旅・朝鮮史上初の統一国家 6〉鄭夢周/「東方朱子学の祖」、政治家、外交官、学識と徳の深い真の名相
2007年07月06日 00:00 歴史足利幕府と交渉、倭寇解決
この身は死に死して百回死に絶えようと
白骨が塵となり土となり魂があろうとなかろうと
王に向けた一片丹心枯れることはない
科拳にトップ合格、希代の才能、歴史に名刻む
丹心歌で有名な高麗末期の風雲児・鄭夢周は幼いとき夢蘭、夢龍と呼ばれていた。気立てがよく礼儀正しい鄭夢周は科挙に状元及第(トップ合格)すると、傾きかけた高麗の命運を建て直そうとあらゆる努力を注ぐが李成桂の五男・李芳遠(1367~1422朝鮮朝三代王・太宗)の指図によって善竹橋で暗殺された。
鄭夢周の母は息子の服をいつも自分で縫って着せた。服の裏地にはまっ赤な布を当てて息子に「宮殿で仕事するときはいつも一片丹心一生懸命働きなさい。それが母の気持ちです」と言い聞かせていた。鄭夢周は李穡の元で性理学(朱子学)を修め、成均館大司成(学長に相当)になり「東方朱子学の祖」とまで言われたが、政治家、外交官としての業績も輝かしい。
北方からの侵略に加え南からの「倭寇」の侵入は高麗が衰退する大きな要因のひとつであった。1350年以降1444年までの約100年間に高麗沿岸に押寄せ平和な村を荒らし略奪の限りを尽くした倭寇の侵入は500回以上を数えた。とくに、1375年から79年の5年間には90回以上襲来して200余りの地方を荒らした。三南地方(慶尚、全羅、忠清の三道)の年貢米を開京に運ぶ航路や各地の穀物倉庫が襲われ、大勢の高麗人が拉致され東南アジアまで奴隷として売りとばされた。
このように緊張の続く時期に高麗王朝では鄭夢周を日本に送り、倭寇の取締りと拉致された高麗人の解放を交渉させた。日本側の交渉相手は三代将軍足利義満時代に九州探題(地方長官に相当)だった今川了俊(1326~1420)である。1377年9月に日本に向かった一行を彼らは監禁し会おうともしなかった。鄭夢周は「昔の人は、来客を歓待しない家は栄えないと言った。盗人が来ても門を開いて迎えたというのに、国王の使いで貴国を訪問した私たちを牢に閉じ込め、ひとことも話を聞こうとしないというのはいかなることか。
犬畜生でも気持ちが通じてこそ一緒に住むのに人の話さえ聞かないならば人といえるだろうか。願わくは何のために貴国を訪問したのか、用件を聞いてほしい」と申し入れた。この正当な要求に応じて今川了俊は鄭夢周を賓客として遇した。会談を通じて鄭夢周の理路整然とした話術に圧倒された今川了俊はその場で謝罪し、学者たちのために講和を要請した。禍転じて福となし鄭夢周は数百人の拉致高麗人を連れて帰ることができた。元の国にも使者として渡り、また、「元」が「北元」になり、「明」に置き換わってからは両国間の特使がお互いに殺害されるほど関係が険しかったが、鄭夢周は使いを願い出て円満に解決した。鄭夢周は学識のみならず徳の深い真の名相であった。
懐柔と脅迫に屈さず高麗王朝に忠節
高麗末期、李成桂の易姓革命(違う姓のものが王朝を開くこと)に対し、一身の安逸よりも忠節を守った忠臣たちは数知れなかった。彼らが忠節を守ったので朝鮮王朝の文人精神にも大きな影響を与えたのである。「杜門洞72賢」と呼ばれる文人達は開豊郡光徳山の麓・杜門洞に移り住み、村から出ないと宣言し「杜門不出」という言葉をつくった。
鄭夢周が殺されてから2カ月後、1392年7月17日李成桂は王位に就き「朝鮮」が建国された。「善竹橋」から歩いて10分くらいの小高い閑静な場所に鄭夢周の旧邸宅跡がある。朝鮮朝時代に儒教を教える今で言う大学・書院に改造された。「崧陽書院」である。
(文=洪南基、写真=文光善記者、終わり)
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