〈遺骨は叫ぶ 3〉三菱美唄鉱業所・ガス爆発、集中豪雨で夥しい犠牲者
2007年04月23日 00:00 歴史JR函館本線の美唄駅から車で約30分で「炭鉱メモリアル森林公園」(北海道美唄市東美唄町)に着く。1972年に閉山になるまで、ここは三菱美唄鉱業所の心臓部だった。朱色の鮮やかな立て坑巻き揚げ櫓、原炭ポケット、開閉所の主要な3施設が一度に見渡せる。だが、この炭鉱で働いた日本人坑夫をはじめ、強制連行された朝鮮人、中国人たちの足跡はどこにも残っていない。
美唄の豊富な石炭が世に知られたのは、開拓使の招きで来日した米国人地質学者ライマンを隊長とした資源調査隊が、1874年に出した報告書だった。無尽蔵といわれた美唄の石炭開発に多くの人たちが挑んだ。会社や個人は枚挙にいとまがないが、それぞれ苦難を続けていた。やがて、北海道進出を狙っていた三菱が、1915年に飯田炭鉱や、美唄鉄道などを買収して、北海道の拠点とした。やがて第一次世界大戦の好況に乗って発展した。1919年の年間出炭量は、57万トンを記録し、道内でも屈指の大炭鉱となった。この時代の従業員は、3000人を超えていたというが、そのなかに朝鮮人がいたという。