〈朝鮮と日本の詩人 18〉内野健児
2006年09月15日 00:00 文化・歴史内野健児(筆名新井徹)は1921年に朝鮮に渡り、大田中学校と京城中学校で教諭を務めた。当時の日本人教諭は朝鮮総督府の官吏というのが公的身分であり、ほとんどが皇民化教育の手助けをした。
しかし健児は植民地政策に批判的な姿勢をもちつづけ、第1詩集「土墻に描く」が治安を乱すとして発禁処分となって日本に追放された。彼はこの詩集をもって朝鮮人民に愛情を注ぎ、連帯の意思をあらわした。
帰国後はプロレタリア詩人会の創立に参加してナップで活動し、その解散後はプロレタリア詩人の拠り所となった「詩精神」を主宰した。
44年に永眠し小熊秀雄、小林多喜二らと共に「解放運動無名戦士の墓」に合葬された。