〈人物で見る日本の朝鮮観〉吉野作造(下)
2004年12月08日 00:00 文化・歴史吉野は1916年6月号の「中央公論」に「満韓を視察して」というかなり長文の論文を発表する。これは、吉野にとって、その朝鮮認識において大転換をなす第二段階の始まりをなす論文であった。吉野は1916年3月末から4月中旬まで満州と朝鮮を視察しての経験を論文にまとめたものである。その論旨は武断治政の実態を朝鮮での各部門ごとにあばき出し、日本政府、または総督府の基本方針たる同化主義に疑問を提起したことである。吉野はいう、「善政をさへ布いて遣れば、彼等は全然無条件に日本の統治に満足するものなりと断定するならば、是れ独立民族の心理を解せざるの甚しきものである。」「予-個の考としては、異民族統治の理想は其民族としての独立を尊重し、且其独立の完成によりて結局は政治的の自治を与ふるを方針とするに在り」と。そして、また、「相当に発達した独立固有の文明を有する民族に対して、同化は果して可能なりや」「事毎に朝鮮人を蔑視し虐待して居るやうでは、到底同化の実を挙ぐることは出来ない」と。もとより、吉野は朝鮮の独立を求めたのではない。独立問題では吉野に最後まであいまいさの残ることは事実だが、3.1運動前に日本人にしてこの主張あるは特筆すべきことである。その朝鮮に3年後、「3.1独立運動」が勃発する。吉野は「中央公論」で「我々の差当り当局に希望する所は、一視同仁政策の徹底である」といい、「一視同仁政策の必然の結果は、鮮人に或種の自治を認める方針に出でなければならない」(「朝鮮暴動善後策」、1919年4月号)という。このほか、吉野には「水原虐殺事件」などの関連文があるが、注目すべきは「朝鮮統治の改革に関する最小限度の要求」(「黎明会講演集」第六輯、1919年8月号)で示された彼の発言内容であろう。