〈人物で見る日本の朝鮮観〉大隈重信(下)
2004年08月25日 00:00 文化・歴史廟堂での征韓論に敗れた西郷は、明治10年、西南戦争を起して敗死し、非征韓派の総師たる大久保も明治11年、出勤途中、征韓派士族島田一郎たちにより暗殺される。そして、大久保亡き後の明治政府の実権は、自然、大久保の手足となって動いていた大隈と伊藤の両人が握ることになる。この両人のいわば政治上の力関係を見るに維新直後期から、明治14年政変で大隈が政権の座を追われるまでは、常に大隈が伊藤の上位にいた。しかし、この位置関係は14年政変で完全に逆転し、伊藤の死まで続くことになるが、大隈の心中では、俺は伊藤の兄貴分だ、との思いが渦まいていた。大隈は、14年政変で薩(黒田清隆)長(伊藤博文)派に追われるや、翌15年3月、改進党を結成して、その総理となり、9月には、早稲田大学の前身・東京専門学校を創立する。彼は政党活動を通じて民衆を啓蒙し、教育事業を通じて人材を養成することに着手したのである。もとより終局の目的は政治権力の座である。この後の大隈は、明治21年、政敵だった伊藤内閣の外務大臣になり、翌年、条約改正問題で爆弾を投げられ片足を失う。また明治29年、松方正義を首相とする松隈内閣で外務大臣に返り咲くが、明治31年、ついに板垣とともに隈板内閣をつくり、首相、兼外相となる。大隈を戦後、ある評論家が「権力に憑かれた一生」と評した所以である。