祖国の統一、夢から現実へ
2000年06月21日 16:59 暮らし・活動55年にわたり南北が分断されてきた状況は、在日同胞社会にも暗い影を落としてきた。南北首脳の出会い、そして15日に発表された南北共同宣言は、単なる夢やイメージではなく現実としての統一への道筋を開いた。それは、在日同胞をこれまで縛りつけていた見えない足枷を取り払い、無限の可能性を開くものでもある。各界各層の同胞の思いは…。
「愉快なキャッチボール」共同研究、研究者交流を / 茨城大学人文学部助教授 兪和さん(44)
「人々の想像を超えて歴史が動くのを目の当たりにした」。興奮ぎみに語る兪和さん(44)は現在、茨城大学で財政学を教えながら、90年代の経済のグローバル化によるアジア諸国の財政システムの変せんについて研究している最中だ。
「経済のグローバル化は戦後の経済システムを大きく変えた。本来、国籍のない資本が世界を自由に動き回っている。だが、アジア通貨危機がそうであったように、有効な対応策はみつかっていない」
こうしたなかで、今回の南北会談がひとつの解答を示した。「『無限競争』(金大中大統領)が世界的規模で進行するなかで、対立に終止符を打ち、協力することの意味は大きい」
以前、(財)国際東アジア研究センターに勤務していた時に、環日本海経済開発の現状を調査するため、92年の夏に朝鮮の羅津―先鋒経済貿易地帯を視察した彼は、南北の今後についてこう語る。
「かつてヨーロッパがそうであったように、経済協力の進展は安定と平和をもたらし、統一を現実のものとするだろう。そのための不可欠な条件は、人的交流の推進と相互理解を深めることだ」
北は今年に入って、EU、そして東南アジア諸国との積極的な外交を行ってきた。「その狙いは、朝鮮半島における米国の影響力を相殺しうる外交手段を獲得し、経済的には、投資誘致環境を整備することにあった」
また、南にとってもアジア通貨危機後の経済危機克服のため、南北間の経済協力の推進を望む声は高まっていた。
今回、会談準備のための水面下の接触と、南北がそれぞれ展開した外交は、まさに南北間の軽快なキャッチボールのようであった。
統一は果たして実現するのだろうかという7,000万同胞の切迫した心情に答えを出すために、南北が今回歴史的な会談を実現させた。
「南北共同宣言後、南北間の経済交流は着実に拡大する。これまでに比べて経済的コストは削減され、価格競争力もつくだろう。ただ、それだけで満足することはできない。経済交流が人々を豊かにすることによって統一の実現はより確実なものとなるだろう」
「これから在日の真価も問われる」と指摘する兪和さん。
彼は、これまでと同様に、南の研究者との交流を深めていくつもりだと言う。
「研究におけるタブーをなくし、南北、海外の研究者による共同研究が活発になることを願う。在日の研究者はそこで能動的に対応していくべきだ」
近い将来は、市場経済化が進む中国の財政についても調べるつもりだと抱負を語る兪和さんであった。
(金英哲記者)
世紀の瞬間に多くの労力/すばらしい民族の1員として / ASMI日本連絡事務所代表 李成花さん(38)
マーケティング会社「アール アンド エル アソシエイツ」の専務取締役で、97年からは、米連邦政府から活動予算を得て活動するアラスカシーフードマーケティング協会(ASMI)日本連絡事務所代表を務める李成花さん。
李さんが、今回の南北首脳会談の歴史的なシーンを、映像で目にしたのは13日の夜7時を回ってからだった。
その日、気にかけながら出社すると日本人社員から金正日総書記が空港に金大中大統領を出迎えたことを知らされた李さんは、「急に胸が熱くなった」。
丸紅をはじめとする日本企業の取引先から「良かったですね」を、連発されたが上の空だった。
その夜、実際映像で見て「考えたのは、まず日本で苦労してきたアボジ、オモニのこと、それから子供たちのこれからのこと…」そして、金日成主席が存命だったら。そこまでを言うと、李さんは急に声を詰まらせた。
「日本のマスコミは、まるで急に『ウルトラC』が出たというような言い方をしているが、そんな単純なものではない」
どれだけ多くの人がこの瞬間のために苦労し、涙を流し、時には血も流し、死んでいったか…。「そうした積み重ねがあの瞬間を生んだ」と。
李さんが担当する仕事には多くの人が関わる。新しい市場開拓のためにはプロフェッショナルな、かなりの詰めが必要だ。時には喧嘩もする。でも、そうやってこそ相手の顔が見えてくる。
94年8月、ジュネーブで行われた国連人権小委員会にNGOの一員として参加した時、外交部の姜錫柱第1副部長(現在は第1副相)に会った。戦争瀬戸際までいった状況を回避させ、米国との際どい交渉過程を実際聞きながら、感動を覚えたという。その2ヵ月後に朝米基本合意文が採択されたことを報道で知って、その過程には色々な人が動いていることを改めて知った。
「今回、55年の分断を解消するために最高の会談が用意されたが、表に出ている以上の何10、何100、何1000もの影の労力が注がれているはずだ」。李さんは自分もこのすばらしい民族の一員であることを誇りに思った。
「統一朝鮮が見えてきた」。統一朝鮮は、環太平洋地域の人の流れも変えるはずだ。
これからどのような場面が自分に与えられるか分からないが、どこで生きようと、どのように生きようと、朝鮮民族としての誇りを捨てず、祖国にかかわって生きていこう。李さんはその夜、ニュースを繰り返し見ては涙し、何度も心の中で叫んだ。
(金美嶺記者)
「夢でないコンピューター大国」南北の技術交流、合作に期待 / 朝大理工学部講師 金賢樹さん(44)
金正日総書記と金大中大統領の対面のシーンに「言葉も出ないほど感動した」という、理学修士の金賢樹さん(44)。在日本朝鮮人科学技術者協会(科協)神奈川会員であり、朝鮮大学校理工学部と湘南工科大学で講師を務める金さんは、南北の幅広い科学技術交流、とくに電子工学技術の発展に期待を寄せる同胞科学者の1人である。
金さんは、インターネットの普及に代表されるIT(情報技術)ブームのはるか以前の、パソコンという名前すらなかった時代、IT創世紀を知る世代だ。コンピュータの世界に金さんをいざなったのは「これから来るであろう電子工学の時代」への強いあこがれだ。
南の企業が北でカラーテレビの組み立てを行ったり、南北共同で年内にワープロソフトを作る計画が発表されるなど、南北間では電子工学の分野で活発な動きが見られる。今回の歴史的対面と会談を機に、南北の工学系企業がソフトやハードの共同開発を行うなど、交流は今後も増えるだろうと、金さんは見る。
「サッカーや卓球で統一チームができたように、電子工学でも双方が優れた技術を交換し合うことで連帯できるはず。南北の技術はどんどん伸びますよ」
例えば南の半導体生産技術など、採り入れられるものは多い。事実、朝鮮コンピュータセンターを見学した南側代表団は、朝鮮のソフト開発が世界的水準にあり、とくに音声認識入力プログラム、指紋認識システムは、世界でもトップクラスにあると評価している。北のソフトと南のハードが手を組めば、南北朝鮮が「コンピュータ王国」になることも夢ではない。
若者の科学技術に対する無関心、いわば「理工離れ」が進むなか、同胞社会の未来を担う3、4世への期待も大きい。
「科学技術は1度、習得してしまえば様々な分野で使える。問題は、その技術、知識をどこでどう使うかということなんです」
科学技術で祖国の発展と統一に寄与する大切さ。金さんは、朝大生に「常にこの基本を肝に銘じるよう」に言っているそうだ。
朝大情報処理学科の学生全員に電子メールアドレスを持たせ、課題のやり取りをメールで行うなど、様々な試みにチャレンジする金さん。「コンピュータ王国」に相応しい人材を在日でも育てようというのが金さんの夢だ。
(柳成根記者)
クロツラヘラサギ、 守れる時が来た – 「南北図鑑」早く子供たちに / 日本野鳥の会国際センター研究員 沈初蓮さん(25)
歴史的な南北最高位級会談のなかで1番感動したのは、共同宣言の発表を目にした時だったという。
「『…環境など諸般の分野の協力と交流を活性化し、互いの信頼を築いていくことにした』というくだりをみて、やったー、と思いました」
日本野鳥の会国際センター国際協力室の研究員、沈初蓮さん(25)は目を輝かせる。
世界中で熱帯地域が1番多いのも、絶滅の危機に瀕している鳥たちが最も多く生息しているのもアジアだという。その野鳥保護、自然保護のために世界を飛びまわっている沈さんは、「ここ十年ほどで、アジアの自然保護に対する意識は飛躍的に高まった。しかし欧米に比べると、まだまだ遅れている」と語る。
日本や海外で北と南の研究者らが研究発表をしたり、互いの意見を交わしあったりと政治の枠を越えた南北の交流はあったが、今までそれらを公式な研究成果として発表することはできなかった。が、今回の宣言によって政治的な壁が崩れ、南北をはじめとするアジア全体の鳥類の研究や自然保護問題においても大いに発展の可能性がみえてきた、と意気込む。
1953年7月に結ばれた朝鮮停戦協定により、軍事境界線から南北にそれぞれ2kmずつDMZ(非武装地帯)が敷かれた。停戦状態における衝突を防ぐために設けた緩衝地帯で、原則として人の立ち入りが禁止されている。その地帯が歳月を経るうちに、何千kmもの長い距離を渡っていく渡り鳥たちの重要中継地となった。
「DMZの西海岸沿いに多く生息するクロツラヘラサギは、現在約660羽が確認されていて、越冬地である台湾や香港で毎年カウントを実施する。絶滅を少しでも防ぐためには、一刻も早くDMZが解除され、保護調査のために人が入れるようにならなければ。やっと自分たちの鳥を守れる希望が見えてきたんです」
野鳥を守ることは、私たちが生きる地球の環境を守ることにつながる。1度破壊された自然は、2度と完全に元に戻ることはない。
「『環境』という言葉が盛り込まれた今回の宣言は、朝鮮でも関心が高まっていることの表れだと思う。今まで水面下で行われてきた交流がやっと日の目をみる時が来た。自然保護問題において在日朝鮮人として、日本で自分が祖国のために何をしていけるのか。裾野はどんどん広がる」
4年間取り組んできた、南北朝鮮の資料を集めた野鳥図鑑の事務局担当、英語版の翻訳もやっと1段落し、今はスペルチェックの結果を待つ日々。統一した朝鮮で、子供たちがその図鑑を一緒にみながら勉強する日もそう遠くないだろう、と胸踊らせる。
決して浮き足立ってはいない口調で語るその全身から、祖国の未来に対する期待と、心の底にみなぎる意欲が感じられた。
(李明花記者)
勇気と力くれた共同宣言、南北合わせた舞台が夢 / 舞踊家 林満里さん(38)
「まさかここまで話し合いが進むとは思わなかった」。東京都・多摩市に住む舞踊家の林満里さん(38)は、統一を目指す南北共同宣言を見てびっくりした。
18歳の頃、南の舞踊家が踊る「サルプリ」を見た時、「これこそ自分が求めてきた表現手段」と舞踊の世界にのめり込んだ。
「本場」に1歩でも近づきたくて「朝鮮、韓国」が付くイベントにはくまなく足を運んだ。
子供が好きで、若い頃には在日本韓国YMCAや日本の学校でチャンゴや舞踊を教えた。「日本の学校でたった1人で頑張っている同胞の子供にエールを送りたかった」からだ。自身も日本の教育を受けた林さんには民族の文化に触れる機会がなかった。その経験も子供への関心を後押ししたのだろう。
舞踊に身を投じて20年。南の人間文化財と呼ばれる舞踊家から朝鮮学校に学んだ舞踊家まで様々な同胞に出会った。
南の伝統舞踊は、年齢を重ねるごとに人生の厚みを醸し出せるところが好き。北の舞踊といえば幼少期に見た国立平壌万寿台芸術団(73年に来日)の公演から「舞台芸術として洗練された」印象がある。息子が通う西東京朝鮮第2初中級学校でチャンゴを教えだしてからは、朝鮮学校の体系的な舞踊教育にも関心を持つようになった。
「日本にいたからこそ、南北双方の舞踊を客観的に見れたし、お互いにいい物を持っていることを実感できた。しかし、自由に交流を出来なかったがゆえに舞踊の世界にも南北の垣根ができてしまった。お互いの良さより、欠点を探すことに人々が気を取られてしまったことが本当に悲しい」
だからこそ、「統一」が待ちどおしい。
日本人との関係もいびつだ。チャンゴの演奏を頼まれた時、「朝鮮学校に子供を通わせていることは言わない方がいい」、「朝鮮より韓国という表現を使った方がいい」と言われることがある。
「日本の人たちが、わが民族を北と南という風に分けて考えることが在日同胞にとってどんなにマイナスだったか。本当に腹立たしかった」
林さんは、昨年の12月、30代の舞踊家4人で「舞翔チュムナレ」という舞台を上演した。メンバーの中には南の踊り手もいれば朝鮮学校出身者もいる。「自分を表現できる踊りをしたい」。4人の思いは共通していた。
林さんには夢がある。南と北の舞踊、モダン、伝統、創作など様々なジャンルの民族舞踊で舞台を作ることだ。
「今回の合意は私に勇気と力をくれた。統一は在日同胞にとって大きなチャンス。南も北も豊かになるための統一だ。今までの殻をとっぱらって交流したい。必ず新しい物が生まれるはずだ」
(張慧純記者)
サッカー通じ「かけ橋」に – 同じ民族、不可能はない / Jリーグ・ヴィッセル神戸・通訳 朴成基さん(25)
愛知朝鮮中高級学校卒業後、阪南大学(大阪)を経てヴィッセル神戸に入団。念願のJリーガーになったのが98年初めのことだ。しかしプロの世界は厳しい。朴成基はJリーグの公式戦に1度も出ることのないままプレイヤーの道から退いた。
この春からは通訳として影でチームを支える。
「本当はピッチでプレーしたい気持ちはあるが、移籍するにしても実力が足りない。でも朝鮮人であるパク・ソンギとして、ここJリーグでなんらかの形でサッカーと関わりを持ちたかった」
近年、日本のJリーグでプレーする南の選手が増えている。ヴィッセル神戸にも現在、河錫舟、崔成勇というナショナルチームクラスの2選手がいる。昨シーズンまではもう1人、今は南に帰ってプレーしているスター選手、金度勲もいて、「神戸のコリアントリオ」と呼ばれていた。
金度勲は1昨年の来日直後、初対面の朴成基に「朝鮮学校でどんな教育を受けた」「北朝鮮の現状は」などと、明らかに戸惑いと疑惑の目を向けながら質問したという。南北分断の状況のもとで、「やっぱり誤解されている部分が多い」と痛感した。
でもしばらくすると年上の金度勲は「先輩風」を吹かし、朴成基に「パシリ」(使い走り)を命じるようになる。最初はむっとした。が、ほかの日本人選手には絶対に頼まない。それは、同じ民族の同胞として認めたというサインだった。「パシリ」がいいかどうかは別問題として、少しうれしくなったという。
「韓国の選手たちにまだ誤解は残っているが、人間と人間として付き合ううえでの難しさは1つも感じない。今ではすっかり打ち解けている」
今や彼らとのコミュニケーションが仕事だ。「これからも、少しでも誤解を解いていくために寄与できたら」と思っている。
3世の彼にとって「統一」のイメージは、「簡単なことではない。難しいこと」だった。でも今は、「統一へのプロセスは色々ある。結局は人と人の関係。やっぱり同じ同胞だ。そう考えると不可能なことではない」と思う。南の選手たちとの日々の付き合いの中で実感していることだ。今回の南北最高位級会談で、その思いはより強くなった。
「もっと早ければよかったというのが正直なところだけど、やっぱり感激した」
2002年のワールドカップに南北統一チームで出場する可能性も出てきた。
「本当はそこに選ばれたかったけど…。でもたとえ裏方であっても、朝鮮籍の僕が直接寄与できる可能性が見えてきたことには胸が踊る。サッカーが分かって、朝鮮語も日本語も分かる、そんな僕のような人材が必ず要求される。通訳の道を選んだのは、ここで経験を積んで、ワールドカップで南北、日本の懸け橋として活躍したいという思いがあったから。それが今、朝鮮学校でボールを蹴っている子供たちに夢と勇気を与えることにもつながると思う」
(韓東賢記者)