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〈特集・ウリハッキョの今〉神奈川中高/民族教育の財産、次世代に継ぐために

2021年12月19日 09:26 民族教育

現在の校舎(写真はいずれも学校提供)

神奈川 横浜 陽当たりの良い沢渡に/初中高の3校を壮大に建てたなら/世の人々が驚き わが校を見つめて/朝鮮人のその勢いがすごいと感心する―。

卒業生たちが学校を懐かしむときに口にする共通の歌、校歌。神奈川中高の象徴である沢渡の丘が、最初のフレーズに登場する同校の校歌からは、激動の中で民族教育の拠点を築いた先代たちの、学校に対する熱い思いが垣間見える。いまでは国際都市として有名な横浜の地に、今から70年前、1世たちの愛国の情と民族教育への熱意に支えられ、開校の鐘を打ち鳴らした神奈川中高。同校の歩みを紹介する。

1世たちを中心に

朝鮮の解放後、同年10月の朝連結成を機に、各地では植民地期に奪われた民族性を取り戻すための動きが活発になる。神奈川では、朝連神奈川県本部(委員長=故・韓徳銖議長)を中心に組織的な学校建設事業を展開。46年2月25日、「横浜朝聯初等学院」(現・横浜初級の前身)の開設をきっかけに、正式な初等教育がスタートした。

52年9月に建てられた木造校舎

横浜、川崎、鶴見、横須賀、南武など、県下の同胞たちが住む場所ごとに、次々と「朝鮮小学校」が設立されるなか、学校関係者らの間では、中級部を創設する問題が喫緊の課題として浮上した。

しかし当時といえば、GHQと日本政府による「学校閉鎖令」で、各地の朝鮮学校が閉鎖に追い込まれ、財産没収や日本の公立分校化など、民族教育を取り巻く状況は困難を極めていた。

そのようななか、神奈川の同胞たちは、在日朝鮮人の子どもたちのためにと学校建設に乗り出し、朝鮮戦争の真っただ中であった1951年4月5日、「朝連横浜中央小学校」の教室を借りて、中級部を創設する。これが、神奈川中高のはじまりだった。

学校に通う生徒ら(50年代)

それから約1年半後の52年9月には、木造2階建ての校舎が新設された。53年に中級部へ入学した張炳國さん(81、3期卒業生)は木造校舎で学んだ当時をこう回顧する。

「横浜初級の初級部低学年時代は、県内にまだ中級部がなくて、私よりも年上の先輩たちは既に建設されていた東京中高へ、はるばる通っていた。だからか、自分が中級部に進学するときに、神奈川の地にハッキョがあるのが本当に嬉しくてね。朝連・神港支部で運営されていた初等学院に通ったときは、学校といっても畳部屋に座り、木のリンゴケースを机にして、黒板も当時教員たちが板に墨塗りをして作ったものだから、初級、中級と学校らしい学校で学べることへの喜びが大きかった」。

高級部生徒たちの授業風景(1955年)

神奈川中級(当時)は53年10月1日、学校設置認可を取得し、その翌年3月20日には中級部初となる卒業生74人を同校から送り出す。一方、54年4月1日からは、中級部の卒業生たちを受け入れる形で高級部を新設。初等、中等教育の体系化を図っていく。

祖国への帰国事業が本格化した59年以降、各地では生徒数が爆発的に増加した。当時約3千人の児童・生徒らが通っていた神奈川中高では、増加の一途をたどる生徒数に、校舎を増築・改修しながら対応していたが、教育施設の規模や教員数が見合わない状況が生まれていた。

そのような流れから、61年には総工費6千万円で、中高の木造校舎を鉄筋4階建て(現在の横浜初級)に新築。建設事業の中心となったのは、創設時同様に、1世同胞たちだったという。

当時執り行われた新校舎落成式について、同年5月11日付の本紙では次のように報道している。

5月1日、神奈川中高創立10周年記念新校舎落成式が盛大に執り行われた。総工費6千万円で660平、4階建て16教室、2千余人の同胞と日本人士らが祝った。とりわけ建設事業で膨大な基金を拠出した同胞有志業者のうち、崔相韶氏は玄関設備一式を、崔ヨンシッ氏は祖国研修室の備品一式を、金光憲氏は花壇と主席の銅像を、孫ジンテ氏は職員室の備品一式を、大同信組からは金庫1個が寄贈され、この日の式典を輝かせた。(*原文は朝鮮語のため判明する名前のみ漢字表記)

61年、中高校舎が鉄筋4階建てに新築される。

一方、当時の神奈川中高は、無認可の自主学校状態。そのため、県教育会を中心に、長い歳月をかけて法人認可取得のための運動を繰り広げていた。

65年3月、県教育会では県に対して申請書を提出。同年9月、県下の初級学校5校とともに学校法人「神奈川朝鮮学園」として、また同年12月24日には各種学校認可を受けて、自立を果たす。神奈川のほかにも、同時期には東京、兵庫、京都、福岡、大阪で、法人認可を取得した。(1965年9月23日付本紙「神奈川県朝鮮人教育会、学校法人神奈川朝鮮学園認可を取得」より)

計り知れない思い

神奈川中高の民族教育史において、欠かせない時期。それは68年から70年にかけて大々的に行われた校舎新築事業であった。本館(=本校舎)と特別校舎まで含めて総工費は約3億5千万円。当時の生徒たちが「学校生活の記憶以上に、駅や繁華街に出ては新校舎建設に向けたカンパ呼びかけの記憶がありありと思い浮かぶ」と話すほど、神奈川の同胞たちは当時、莫大な費用をかけた校舎建設事業に、老若男女問わず一丸となって奔走したという。

68年から70年にかけて校舎新築事業が大々的に行われた。写真は70年5月20日の新校舎落成式

そうして1970年5月20日、建設事業の全工程を完了し、沢渡の丘のうえに雄大な校舎群がそびえたった。

同日行われた新校舎落成式。参加した神奈川の同胞たちは「植民地時代を考えれば、夢のような日だ。祖国の解放を迎えたあの頃の感激がよみがえるようだ」「今から20余年前学校を閉鎖しようと日本の警官がやってきたとき、夜通し学校を守ったのがまるで昨日のことのようで、その頃を思い出すと涙が止まらない。いまでは孫たちがこの教室で学び、この運動場で走り回っている。これがどれほど嬉しいことか」などと抑えきれない感情をあらわにしている。(当時の本紙報道より)

2世同胞たちが中心となり体育館が新設される(84年9月9日)

植民地宗主国・日本という異国の地に生きる在日同胞たちにとって、この建設事業に込められた思いは計り知れないものだった。

その後も84年9月9日には、2世同胞たちが中心となり体育館が新設されるなど、多くの卒業生や同胞たちが学校発展に向けたさまざまな事業に共鳴し、行動してきた。このような地域同胞たちの思いは、創立から70年が経過した現在も変わらずに同校を支える根幹にある。

“70周年は転換点”

2000年代に入り、学校独自の魅力を養おうと、言語教育および情報教育を積極的に推進している同校。言語教育でいえば、2004年度から質向上に向けた3ヵ年計画を実施。対内公開授業や朝鮮語、日本語、英語からなる3言語イベントを開催するなど、子どもたちが語学に親しみを感じるだけでなく、自他ともに認める教育の形を追求している。

当時、その取り組みの中心となった張末麗教務部長は「生きる教育をするために、分科責任者をはじめ教員たちが一生懸命に学んだ。その過程で生徒たちに目に見える変化や成長をもたらし、また教員たち自身も達成感を感るという、良い循環ができあがった」と話す。現在、言語教育については、さらに磨きをかけるために、選択科目の改編について議論がなされている最中だという。

今年10月の「70周年慶祝大運動会」

他方で、70周年記念事業と関連しては、来春に開催予定の記念行事のみならず、運営面を含む学校の環境整備、教育ビジョンの提案、学生募集につながる広報戦略と宣伝ツールの開発、そして歴史保存事業としての記録映画や資料集の制作など、創立100年を目指した学校づくりに、学校関係者たちが総出となり拍車をかけている。

同校の金燦旭校長は「教職員も教育会理事たちも皆が、いま自分たちは崖っぷちに立っていると思っている。それはいま踏ん張らないと、学校の10年後も30年後もないということだ」と述べながら、「神奈川中高という財産を次世代に継いでいくために、この70周年を、学校を発展させるための転換点に据えて、引き続き奮闘したい」と語った。

(韓賢珠)

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