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〈朝鮮民族の美78〉石仏寺石窟庵 釈迦如来坐像

新羅の王族で宰相であった金大成(701~774)は、政治家であると同時に、きわめて優れた建築家でもあった。彼は現世の父母のために仏国寺を建立し、前世の父母のために石仏寺(石窟庵)を建立しようと工事を始…

〈朝鮮民族の美75〉金剛三山冠思惟像⑦

三国時代を通じて最高の仏像とされるこの思惟像は、長期にわたって百済仏であるか、新羅物であるのか、論議されてきた。

〈朝鮮民族の美74〉瑞山磨崖三尊仏⑥

忠清南道瑞山市は、西方には複雑な海岸線を持つ瑞山海岸国立公園が拡がり、東側の伽耶山一帯は仏教遺跡に恵まれている。その伽耶山渓谷(인바위)と呼ばれる岩壁に磨崖仏があることは、近隣の人以外には知られていな…

〈朝鮮民族の美73〉滑石製如来坐像⑤

これは戦前、東大国史学科を卒業し、京大の考古学教室の副手として勤務した後、朝鮮総督府博物館慶州分館に勤務することになった斎藤忠(ただし)氏が1936年9月、百済の古都の近くにある軍守里の廃寺の塔の心礎…

〈朝鮮民族の美72〉金銅日月飾宝冠思惟像④

わが国にただ二体だけ残る三国時代後期の大型の金銅半跏思惟像の一つである。日帝の時期、「慶州のある無名の古寺で発見された」とも、「中清道の僻村の名もない寺庵で発見された」ともいわれるが、日本の骨董商によ…

〈朝鮮民族の美71〉辛卯銘 金銅無量寿三尊仏③

高句麗は長寿王の15年(427年)に鴨緑江中流の国内城(集安)から平壌に都を移し、王を中心とする中央集権制を強化するため、国のイデオロギーとして仏教を取り入れたのであった。

〈朝鮮民族の美70〉平安南道元吾里出土 塑造菩薩立像②

高句麗は北扶余から卒本扶余へ、そして国内城(通溝)へ都を移して南下した。その結果、政治的には百済、新羅ときびしく対立することになったが、文化的には両国に大きな影響を与えつづけた。