二人の息子は、自分たちがややもすれば祖国を裏切るところだった恥辱に対する悲痛な思いを胸に、夜明けに母を訪ねて高句麗の陣営へと移ってきた。 息子たちは母の前に伏して許しを請い、乙支文徳を訪ねて自らの罪を [...]…
詩人、学者が競って跋文書く 「貧しさ」を背負い 1519年、夫である兪汝舟(ユ・ヨジュ)が政治的謀略に巻き込まれ流罪になったとき、18歳で嫁した林碧堂(リムビョクタン)金氏(1492-1549)は28 [...]…
…元々、鹿足夫人には二人の息子がいたが、彼らも母に似て両足が鹿の足とそっくりであった。 ある日のこと、その子たちが外で遊んでいると、貴族の子がしきりにからかうので、なぐったところ、そのまま死んでしまっ [...]…
「なりません。虎穴に、しかも単身で乗り込んでいくなどあってはならないことであります」 それでも、乙支文徳は泰然自若だった。 彼は、敵陣に入った時から陣中を注意深く探った。…
在日同胞ピアニスト梁成花さんのセカンドアルバム「ドビュッシーとコリアン・メロディー」が21日、発売される。収録曲はドビュッシーの「アラベスク1・2番」「月の光」「花火」「喜びの島」、コリアンメロディー [...]…
コチュジャンの赤、豆もやしの黄色、ほうれん草の緑、大根の白、ぜんまいの茶色。ピビンバのヒーローは、息子やトンムたちにも大人気。暑くてもさらっと食べられる冷やし麺のお弁当を…と思ったら、たまたまピビンバ [...]…
陸軍の到着だけをじりじりしながら待っていた敵の水軍大将、來護児は自分たちの水軍だけでも鳳皇城など造作ないと大言壮語しながら、4万の精鋭軍を選抜して攻め込んで来た。しかし、敵は高句麗軍の誘引戦術に嵌って [...]…
隋軍との最初の戦闘は612年3月、武厲邏(大凌河の東側)で行われた。 国の西部国境前哨基地である武厲邏城を守っていた高句麗軍は隋の先頭部隊に大打撃を与え、基本防御線である遼河の東側へと撤収した。 隋軍 [...]…
「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」は、90周年の取り組みとして、映画「払い下げられた朝鮮人」の上映と学習会を開き、歴史教育者協議会のフィールドワークの案内、八千代観音寺での [...]…
この絵の主人公、金正喜(1780-1856)は朝鮮朝の名家である慶州金氏の家門に生れ、実学派の大家として名高い朴斉家について学んだ。号は秋史、阮堂など。24歳の時、父が清国への使節団で燕京(北京)に派 [...]…